『ジゼルの叫び』
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死の物語を生きる少女たち
[レビュアー] 文月悠光(詩人)
芸術、特にクラシックと呼ばれる古典の分野は残酷だ。プロを目指すならば、生まれ持った身体的条件と、経済的に恵まれた環境が不可欠。加えて、幼少期から厳しいレッスンと競争に耐えなければいけない。夢のような美しさの裏側には、徹底的な鍛錬と痛みが伴う。
本作は、バレエの天才として将来を期待される女子高生の澄乃と、周囲の人々の視点で語られるミステリアスな青春小説。澄乃の通うバレエ教室では五年前に、佐波明穂という天才少女が湖の近くで目撃されたのを最後に失踪しており、退廃的な死の気配が物語を彩っている。
登場人物はそれぞれが何かに依存し、魅入られている者ばかりだ。澄乃の双子の姉である彩乃は、数年前にバレエを辞めたものの〈踊りの途中に訪れるあの恍惚の空白〉が忘れられない。荒れた家庭環境の中バレエを続けている林るり江は、才能に恵まれた澄乃に嫉妬の炎を燃やす。澄乃のクラスメイトである新川は、スマホゲームの虚構世界に依存している。バレエ教師の息子・形郎は、佐波の死を深く引きずっている。そして澄乃は、佐波の死に、同じ踊り手として惹かれ続けてやまない。
彩乃が語り手の一章では、蔦や生い茂る植物によって、彼女の切迫感が表現されている。まるで遥か昔に置いてきたはずのバレエが、今になってその触手をのばし、自分を絡め取ろうとするように――。
その不穏な空気の正体は、〈バレエという芸術の不毛さと美しさ〉に起因している。「完璧なバレエなんてないよ」と澄乃は断言する。「完璧なバレエをめざすことは、人間の肉体を否定することになるの。ひとのからだは、バレエのためにつくられたわけじゃないから。どんなに才能があっても、技術が高くても、完璧なバレエは踊れない」。
それでもなお、少女たちは舞台に立つ。誰のためでもなく、自分自身との戦いのために。人間を超えた死の境地でしか達成しえない美しさを目指し、傷だらけになりながら踊り続ける。いつしか澄乃は、頭の中にひとりの少女――「佐波明穂」という名の幻――を住まわせるようになる。佐波が生と死の狭間に見た光景を、澄乃は舞台の上で描き出そうとしていく。
同じバレエ教室に通う澄乃とるり江は、教室の公演で『ジゼル』の舞台に立つ。『ジゼル』第二幕の舞台設定は、夜の森。ウィリたちが支配する死の世界である。対照的な二人の踊り手、ジゼル役の澄乃と、ミルタ役のるり江の衝突も見逃せない。
私自身、劇場の暗闇は、死と不可分なものに感じてきた。客席にいるとき、自分はいま生きているのか、死んでいるのか、わからなくなる。客席の私たちは死者で、舞台で躍動する者だけが、この瞬間を唯一生きているように思える。舞台に立つ踊り子を見つめ、「あんなふうに生きてみたい」「なんて美しいのだろう」と思うとき、同時に私は、自分が「生きていない」こと、「美しく」なれないことに気づかされる。
〈死者や過去は、生者からの視線を浴びつづける。舞台に立つ踊り手もまた、観客の視線に晒されている。どちらもおなじ、誰かからまなざされることで、その存在をゆるされているのだ〉。
本作では、踊り手=死者、観客=生者として描かれる。舞台と客席。彼岸と此岸。決して越えられない境界線が引かれている。生者は、死者に焦がれ続ける。だが、見ること/見られることの関係は、一方的なものなのだろうか。死者や過去もまた、生者をまなざしているのではないか――。
ジゼルの死と共に、呼吸しはじめる澄乃の生。物語の役と、踊り手の運命が交錯していく。そのめくるめく転換に、私は息を飲んだ。
生きて死んで終わりではない。表現者は、物語という形で幾通りもの人生を生きることができる。語り手となる決意を固めた澄乃の姿は、恐ろしいほどに孤独で、凜と美しい。
彼女は何度でも生まれ直し、産声を上げるだろう、眩しいほどに輝く舞台の上で。