「生きているのも悪くないな」と思うためにはどうすべき? 禅僧に学ぶ「心が楽になる生き方」
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
けしからんと思われるかもしれませんが、私は人の役に立ちたいという「尊い志」があって僧侶になったわけではありません。
物心ついた頃から、自分の中に抜き差しならない問題があり、生きてその問題に取り組むには、出家を選ぶしかなかった。それが正直なところです。(「はじめに」より)
こう明かしているのは、『禅僧が教える 心がラクになる生き方』(南 直哉著、アスコム)の著者。中学3年生で釈迦の「諸行無常」という言葉に出会ってから仏教に惹かれるようになり、大学卒業後2年間のサラリーマン生活を経て、出家の道を選んだという人物です。福井県の永平寺で僧侶として20年近く過ごしたのち、青森県の霊場、恐山の院代(住職代理)となってから10年以上が経つといいます。
以来、ひたすら自分の問題に取り組んできたそうですが、修行を重ね、さまざまなところで発言を始めた結果、自分と同じような生きづらさを感じている人たちが少なくないということを知ったのだとか。
人から見れば幸せかもしれないが、何かが満たされない。
トラブルがあるわけではないけれど、どことなく人生が息苦しい。
生きることへの違和感が捨てられない。
そんな人たちです。
(「はじめに」より)
そこで本書においては、著者がいままで会ってきた人たちとの会話のなかで感じたことや、僧侶として、自身が日々考えてきたことなどを綴っているわけです。仏教そのものを学ぶ本ではなく、仏教というツールを使って、こだわりや執着から起こる苦しみの正体を知り、その取り扱いを身につけるための本なのだといいます。
きょうは二章「『夢』や『希望』という重荷を下ろす」に焦点を当ててみましょう。
「欲しい、欲しい」と思うときは、強い不安があるのだと考える
時間、地位やお金、承認や賞賛、特定の状況など、「欲しい、欲しい」と願い続け、常になにかが足りないと感じている人は、本当になにかが欲しいのではないと著者はいいます。多くの場合、「欲しい」の根底に強い不安があるものだというのです。
その証拠に、「○○が欲しい」と話す人たちに「なにが、どのような理由で欲しいのか」を尋ねても、あいまいな答えしか返ってこないもの。また、話を煮詰めていくと、じつは簡単に手に入るものを求めている場合もあるのだといいます。
どんなに欲しいものを追いかけても、その背景にある理由がわかっていなければ、心は満たされないということ。だからこそ、なにが自分にそう思わせているのか、きちんと見極めなければいけないという考え方です。
以前、悩み相談に来た女性は、「結局、私は心安らかな毎日が欲しいだけなんです」というので、「それは、どういう毎日ですか?」と尋ねてみました。
彼女が話し始めたのは、「朝7時頃起きて、ゆっくりお茶を飲んで、朝食をきちんととって…」と今すぐにでもできそうなことです。それなら話は早いと、具体的に聞いていきました。
「では、今何時に起きているんですか?」
「8時にしか起きられないので、いつもバタバタなんです」
「それなら早起きして7時に起きれば、すぐ心安らかになれるじゃないですか」
「いや、忙しくて寝るのが遅いから、睡眠時間は削れません」
「だったら、仕事を早く終わればどうですか?」
「時給で働いているので毎日1時間短くすると、月に○○円も低くなって…」
と、つつましい計算が始まりました。
しかし、自分がなにを大切にしたいのかがわかっていれば、人に聞くまでもありません。
朝ゆっくり過ごして平穏な日々を送りたいのなら、多少の収入減は受け入れる。お金が欲しいのなら、あわただしい毎日は仕方ないと考え、しっかり働く。
どちらかを選べばいいだけです。悩む必要はまったくありません。(95ページより)
自分がなにを求めているのか、なにを大切にしたいのかがわかっていないから混乱してしまい、不安になるということ。そして、「なにか」が手にはいれば幸せになれると勘違いしているというわけです。
逆に、なにが欲しいのかを聞いていくと、非現実的な夢を語りはじめる人もいるのだといいます。「豪邸が欲しい」「有名になりたい」など、最初から明らかに本人も無理だと心のなかでは思っていることを「欲しい」という人もいるというのです。著者によれば、そんな人たちの共通点は、満たされていない「なにか」があり、きわめて不安な状態が続いていること。そして、自分自身が不安であることに気づいていないこと。
「こんなはずではなかった」
「このままでいいのだろうか」
そんな漠然とした不安の代用品が「欲しいもの」であり、「自分の生活を思いどおりにしたい」という欲望だというのです。しかし、もっと大切なのは、なぜ自分が「欲しい」と思うのか。その理由がわかっていなければ、どんなに「欲しいもの」を追いかけても問題は永遠に解決しないということです。
だから、話の次元を変えないといけないのです。
自分はいったい何が不安なのか。
どのような状況が自分を不安にさせているのか。
手間と時間をかけてきちんと考え、見極めなければいけないのです。
(99ページより)
この言葉は、ぜひとも心にとどめておきたいところです。(94ページより)
「生きているのも悪くないな」と思える人生を生きる
禅では「日日是好日(にちにちこれこうにち)」と言います。
「どんな一日も、よい日だ」と解釈されやすいですが、本当の意味は違います。
これは「好日」か「不好日」かには「意味がない」と言っているのです。
毎日が「好日」ですから、「いい日」も「悪い日」もないのは当然でしょう。
要するに、毎日がよい日なら、もはやいいも悪いもないでしょう。
(109ページより)
ちなみにこの禅語の前には、「十五日以前は、即(すなわ)ち問わず。十五日以降は即ち如何(いかん)」という言葉があるそうです。これは、「十五日以前のことは問わないが、十五日以降のことはどうだ?」という意味。この「以前」と「以後」を人生の前半と後半と解釈することもできるし、「人間の人生には、価値のあるときとない時があるか」と問うていると捉えることもできるといいます。
そして、この問いを発した老師は、弟子の答えを待たず、自ら「日々是好日」と答えたというのです。仏教徒にとっては、前も後もない、いいも悪いもない、ただ修行の日があるだけだということ。いいかえれば、一生を振り返って「いい人生」だったか「悪い人生」だったかなどは関係ないわけです。
死に際して、「まあ、そこそこの人生だったかな」「いいことも悪いこともあったが、とりあえず生きたな」と思えれば十分だと著者は考えているそうです。そして、そんな死を迎えるために重要なのは、「大切な自分」から降りて他人に自分を“開く”こと。それは損得勘定から離れ、人の縁を結んでいくことだといいます。
大したことのない自分が、死ぬまで生きていかなければならないのは億劫なこと。しかし生きているからには、その億劫なことをやるしかありません。そして、自分をなんとか使いこなしていくには、「これだ」と決めた道で、手間と暇をかけるしかないといいます。
しかし今、多くの人が「取引」と「競争」の中で生き、疲れ切っているように思います。自分を高め、人に勝って得をし、「役立つ自分」や「すごい自分」でいなければと思い込み、疲弊しているのです。
でもそんな人間には、正体不明の「死」が最初から組み込まれています。そして人生には、死ぬこと以上の大仕事などありません。
そこに思い至ると、今あなたが苦労している取引や競争は、じつは、人間の存在が持つひとつの価値に過ぎないとわかるでしょう。
(111ページより)
自分を決定づけるのは、他者とのかかわりしかないといいます。「自分のため」ではなく、「人のため」と考える。なんでもいいなりになるということではなく、他人と問題を共有して取り組むということ。それが、「やるべきこと」になるという考え方です。だからこそ、「やりたいこと」ではなく、「やるべきこと」をするのが大切。
大事なのは、「大切な自分」や「本当の自分」、「夢を叶えて生きる」といった妄想から降り、他者とのかかわりのなかで成立している自分の存在を見極めること。そこを目指していけば、「生きているのも悪くないな」「生きていてよかった」と思える日々が重なっていくはずだと著者は主張しています。(108ページより)
仏教は、人生はつらく、苦しく、悲しいもの、せつないものだと断じているのだそうです。たとえそうでも、すべてを抱えて死ぬまで生きる、その勇気こそが尊い。つまり仏教とは、生きるためのテクニックだということ。だとすれば、仏教というツールの一端を活用してみれば、生きることは少し楽になるのかもしれません。