自分をよく知る者の死は、当の本人の一部が死ぬこと
[レビュアー] 吉田豪(プロ書評家、プロインタビュアー、ライター)
梶原一騎(高森朝樹)が亡くなってから30年経ち、真樹日佐夫(高森真土)が亡くなってから5年経ったいま、唯一生き残った三兄弟の末弟・高森日佐志が、梶原、真樹、梶原夫人・高森篤子といった面々を追悼するエッセイ集が出版された。
異常にドラマチックかつリズミカルな文章を書く名文家の長兄・梶原や、クールな文体の真樹と比べると、日佐志の文章はかなり固くて読みにくいし、改造社『俳句研究』の編集長だった父・高森龍夫に関する冒頭の描写が長いので取っ掛かりも悪い。しかし、身近な人間にしか書けないエピソードが満載なのだ。
たとえば梶原兄弟の不良ぶりについての話も、「朝樹の小学校時代」、「蒲田のマーケットを舞台に彼は掻払いや万引をくり返し、はては真土まで引き入れるようになったため、両親はやむなく彼を施設へやることにした」だの、「真土が警察に捕まった。真土はボーイ勤めをしていたのも事実だが、昼間しばしば学校を休んでは都内あちこちで空き巣狙いを累ねていたのだ」だのと、暴れっぷりを強調していた本人たちの記述とは微妙に違っていたりするし、篤子夫人の最期についてちゃんと書かれたのも初めてだと思う。亡母の10周年追悼集会で挨拶をしていた篤子夫人が突然倒れ、そして亡くなるのを目の当たりにした日佐志は、「自分をよく知る者の死は、当の本人の一部が死ぬことでもある。梶原一騎に見初められた娘盛りの篤子の美しさを知り、その後の半世紀にわたる彼女の喜びと悲しみの歴史に側近く立ち会った者は、もはやこの世に私一人しか存在しない」と振り返る。一人だけ取り残された寂しさはよくわかるが、父・龍夫の追悼録で、父と違って「こんなやつ(自分)がくたばっても断じて追悼録など出っこない」と断言していた梶原が、いまもこうして語られ続けているように、梶原兄弟や篤子夫人についても語られ続ける限り、世の中では生き続けるはずなのであった。