誠実で衝撃的な中国論 五百旗頭真/『中国はなぜ軍拡を続けるのか』阿南友亮

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中国はなぜ軍拡を続けるのか

『中国はなぜ軍拡を続けるのか』

著者
阿南 友亮 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
社会科学/政治-含む国防軍事
ISBN
9784106038150
発売日
2017/08/25
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

誠実で衝撃的な中国論

[レビュアー] 五百旗頭真(政治学者・熊本県立大学理事長)

 本当の専門家とは、こういう人を言うのだろう。小学生の時から中国に住み、旅行好きな外交官の父に連れられて中国各地を訪ね歩いた。大学時代に中国研究を志すと、単身バスを乗り継いで奥地に分け入る。全省を踏破したという。大都市に高層ビルが林立する繁栄ぶりだけを見て、中国の躍進はすごいと一面的に思い込む旅行者と異り、著者は悠久の歴史の中で変ることなく貧困に苦しむ奥地の住民とも会話している。

 中国社会を並はずれて重層的・全面的に見ることのできる著者は、現代中国の歴史をどのような物語として理解しているのか。どのような社会像を見出しているのか。読み始めれば手放すことのできない本書である。

 私は本書に衝撃を受けた。誠に厳しい現代中国評価なのである。といって、時に書店に平積みされる無知ゆえの感情的反中論とは全く違う。自らの観察と幅広い研究にもとづき、何が本当なのかを誠実に探究する結果として、厳しい評価を率直に語る。だからこそ衝撃は大きい。

 まず鄧小平評価が甘くない。国際的ステレオタイプの認識は、新中国を毛沢東が大躍進政策や文化大革命の発動によって混乱に陥れたのを、鄧小平が収拾し、現代中国を世界の市場経済と結びつけることにより高度成長を可能にして救ったというものである。本書も、鄧が農村に生産と商業の自由を許して再生に成功したことは評価する。圧倒的比重を占める農業セクターの生産拡大があったればこそ、沿海部において「改革・開放」の試みに着手する余裕が生じた。一九八〇年代に私が初めて訪中した際、上海郊外の郷鎮企業の活況と、深セン(しんせん)の日中合弁会社の立ち上げを見せられたのをなつかしく想い出す。著者は、しかし鄧の「先富論」は破綻したとする。まず社会の一部が富裕を手にし、やがて全体に富が均霑(きんてん)する流れとはならなかった。課税制度の不備だけでなく、共産党の権力と富が結びつき、権力者の一族や関係者のみが国営企業を許され、特権的富裕層が生れ構造化したからである。社会主義の名が恥じる格差社会となった。富にも福祉にも医療にも見放された農民や労働者が大量に放置される結果となった。鄧も平等の実現や民主化改革の必要を認め、胡耀邦や趙紫陽を用いた。しかし共産党体制の護持と既得権を主張する保守派とのバランスにおいてしか、彼らを支持しなかった。民主化運動が共産党体制への挑戦にまで進んだ天安門事件において、鄧は民主派を切り、軍隊によって運動を粉砕した。

 巨大国家の統治と秩序の困難を想えば、鄧の処断も理解できようが、本書はこの鎮圧が大きなモメンタムを歴史に残したとする。軍歴のない江沢民は、国防費を潤沢に融通して軍を味方につけた。社会格差の解消ではなく特権層の既得権の強化を許して政軍幹部の腐敗を構造化した。排外的ナショナリズムを煽って社会によどむ不満をそらした。「和諧社会」を掲げた胡錦濤と温家宝の政権は、江の築いた既得権体制に屈し、平等を取り戻す改革は流産した。

 つまり、すさまじい経済発展を続けた中国であるが、社会内部では大きな格差が固定し、富の再分配も社会保障も進まない。国防費の驚くべき膨脹とそれを背にした東シナ海や南シナ海への強引な支配拡大が国際的な反発を招いているが、それにも拘わらず中国の軍事水準は寂しいと本書はいう。たとえば劉華清の力強いリーダーシップの下で中国海軍は近代化を進めたが、米国に遅れたロシア海軍をモデルとしているため、中国独自の工夫を加えようとするものの米国水準にはなお遠いという。第五世代と思える戦闘機も登場してはいるが、高度な情報システムに全軍が有機的に結ばれて行動する国際的な最新レベルから見れば、時代遅れの軍隊に留る面も否めないという。

 なるほど、そうなのかと本書に教えられるところは少くない。中国に市場経済を提供し、援助を与え、暖かく接しさえすれば、中国はわれわれと似た国になるといった楽観論が誤りであったことは、本書の言う通りであろう。ただ本書の中国像が一貫した構造的理解に貫かれているところが強味であるとともに、ふと不安を感じるところでもある。われわれは民主的価値を奉ずるが、それはどの社会でも簡単に手にできるものではない。いかなる社会もゆらぎながら進む。そのことは機会でもありうる。中江兆民の『三酔人経綸問答』において、鮮明な立場で持論を展開する東洋豪傑君や洋学紳士君に対して、過慮を戒める南海先生のあそびの要素も、異文化社会を扱う場合に必要なのではないだろうか。

新潮社 波
2017年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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