『ハリネズミの願い』の作家が語る、ロシアから亡命した祖父と、一番好きな自作のこと。

インタビュー

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おじいさんに聞いた話

『おじいさんに聞いた話』

著者
トーン・テレヘン [著]/長山 さき [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784105901400
発売日
2017/08/25
価格
1,944円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

【インタビュー】トーン・テレヘン/ハッピーエンドのお話はないの?

[文] 新潮社

自宅の仕事場で。右上の「衝突」の絵は、現在アーティストとして活躍する息子のボリスが3~4歳のときに描いたもの。
自宅の仕事場で。右上の「衝突」の絵は、現在アーティストとして活躍する息子のボリスが3~4歳のときに描いたもの。

「ハッピーエンドのお話はないの?」
「これは、ロシアのお話だからね」

 昨年刊行の『ハリネズミの願い』がベストセラーとなっているオランダの作家トーン・テレヘン。この夏に刊行された『おじいさんに聞いた話』は、自ら「もっとも愛着がある」と語る作品だ。テレヘンの祖父はサンクトペテルブルクに生まれ、ロシア革命の翌年、オランダに亡命。終生、望郷の念に捕われて生きた人だった――。

 ***

 トーン・テレヘンの掌篇小説集『おじいさんに聞いた話』のおもな舞台は、〈おじいさん〉が生まれ育ったロシアのサンクトペテルブルク。孫である〈ぼく〉にロシアのことばかり語りつづけるおじいさんの姿には、作家自身の祖父が色濃く投影されています。

 ■サンクトペテルブルクの貿易商

――サンクトペテルブルクという地名を初めて耳にしたのはいつごろですか。

 覚えていないけれど、五歳くらいでしょうか。これまでに三度ほど行きました。初めて旅したのは一九八五年、四十三歳のときのことです。まだレニングラードと呼ばれていたころですね。

――ロシア革命前のサンクトペテルブルクには、オランダの貿易商がたくさん移住していて、コミュニティができていたそうですね。

 十八世紀からすでにオランダ人が住んでいました。ぼくの祖父の祖父の父がサンクトペテルブルクに開いた店に、ロシアの軍人で、エカテリーナ二世の愛人だったポチョムキンが竹のステッキを買いにきたそうです。一七八〇年のことです。その店では、オランダ領東インドから竹を輸入し、アムステルダム経由でサンクトペテルブルクに運び、販売していたんです。竹や香辛料などいろいろなものを扱っていました。

――代々、貿易商だったのですね。

 順にさかのぼって話してみましょう。ぼくの母は一九〇九年に、祖父は一八七五年に、曾祖父は一八三五年に、高祖父は一七九八年に、それぞれサンクトペテルブルクで生まれました。高祖父の父、ぼくのひいひいひいおじいさんは一七六〇年ころオランダで生まれ、若いときから商売でサンクトペテルブルクを訪れていた。やがて店を構えるようになり、そこにポチョムキンがやってきた。一族のなかには、彼より先にサンクトペテルブルクに行っていた者もいた。彼の父もそうだったかもしれない。

 彼らはオランダから馬車でサンクトペテルブルクに向かったんですよ。ほかに交通手段がなかったから。バルト海に沿って、ドイツ、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア……何週間もの行程だった。

――四代も五代にもわたってサンクトペテルブルクに暮らしていらしたんですね。

 ええ、とても長い歴史があるんです。

 ■おじいさんに語らせる

1904年、サンクトペテルブルクの写真館にて。左から二人目がテレヘンの祖父、隣が祖母。祖父に抱かれているのは1903年生まれの母の長兄。右端の二人が曾祖父と曾祖母。手前の少年と少女は母のいとこ。犬は家から連れてきた。1909年生まれの母はここには写っていない
1904年、サンクトペテルブルクの写真館にて。左から二人目がテレヘンの祖父、隣が祖母。祖父に抱かれているのは1903年生まれの母の長兄。右端の二人が曾祖父と曾祖母。手前の少年と少女は母のいとこ。犬は家から連れてきた。1909年生まれの母はここには写っていない

――巻頭に「パブロフスクとオーストフォールネ行きの列車」という長い詩が一篇おかれています。祖父と母と〈ぼく〉が列車で旅をしている。向かっているのはオランダのオーストフォールネなのに、祖父は、車掌に行き先を問われると、ロシアのパブロフスクと答える。

 パブロフスクに家族のダーチャ(夏の家)があったんです。ぼくはこの本全体を、「ぼくの祖父がぼくに話すことができたかもしれない物語」として書きました。祖父という存在の土台であるロシアでの暮らし、体験、さまざまな知識が出てきます。ディテールに時代的な齟齬がないよう細心の注意を払いました。

――小説内でのリアリズムということですね。

 そう、まったくの作り話ではないんです。ストラクチャーはほんものです。その構造のなかで、祖父が孫の〈ぼく〉に話をする。子どもの〈ぼく〉には、その話が作り話かどうかわからない。でも皇帝がロシアじゅうの犬を集めて戦場に送ったという話(「犬」)、これはほんとうであるはずがない。祖父が孫に空想の話を聞かせているんです。ぼくが話をつくるのではなく、祖父に話をつくらせたんです。だからぼくには責任がない(笑)。

――この本はそもそも、お友だちに宛てて書いた手紙だったそうですね。

 手紙の前に一つだけ、「鳩墓地」という物語を書いていました。オランダの月刊誌に掲載されたものですが、珍しい病気で死んだ人だけが入れる特別な墓地の話(笑)。かなり不条理な話です。それを読んだ兄が、「ぼくはおじいさんからこんな話を聞いたことがなかったな」と言ったんです。兄がほんとうのことだと思ってくれたことがとても誇らしかった。

 それからずいぶんたった一九九七年のこと。夏のバカンスで南フランスに滞在中、友人の作家、ケース・ヘト・ハルトに手紙を書いていて、またおじいさんが話したかもしれないほんとうのような話を書きたくなった。

 親愛なるケース様、今日は月曜日、ぼくたちはもうすぐ泳ぎにいくところ。買物もする予定。すばらしいお天気で、きのうは鹿を見た。ぼくの祖父からこんな話を聞いたんだ……というようにお話を書いて、それからまた、いまから森を散歩してくる、と書いて、またお話……そんなふうにずっと書きつづけた。この本一冊分を書き終えたときには、一二〇、三〇枚の束ができていました。

 オランダにもどるとき、村役場でコピー機を借りてコピーして、元の手紙は友だちに送りました。オリジナルの手紙は彼がまだもってると思うよ。わからないけど(笑)。

――夢中で書きつづけたのは、おじいさんのことを、おじいさんのふりをして書くという発見がとても楽しかったからでしょうね。

 まさにそのとおりです。毎日、ページがどんどん増えていって……あれは特別な時間だった。

76、7歳の祖父エフベルト・エングベルツ。金婚式の日に撮影。
76、7歳の祖父エフベルト・エングベルツ。金婚式の日に撮影

 ■これはロシアのお話だからね

――おじいさんは、おばあさんにいくら止められても、死をめぐる話や悲惨な話ばかり〈ぼく〉に語りつづけます。貧乏な下僕がいっそう不幸になって家族もろとも無残な死を遂げるとか。ハッピーエンドのお話はないの? と〈ぼく〉ならずとも思いますが、おじいさんは、「これはロシアのお話だからね」と言うばかりです。

 ロシアの悲惨な話というと、ゴーゴリの『外套』を思い出します。あの主人公は幽霊になって恨みを晴らしますよね。でもこの本のお話は、外套を取られたと思ったら、そのあと帽子も靴もぜんぶむしり取られてぷっつり終わる、というような……。

 それは、ロシアでの祖父の人生があるとき中断され、亡命を余儀なくされ、不幸な終わりを遂げたから。それが彼の人生だった。復讐したいと思っても、ソヴィエトに復讐することはできなかった。

――その無念が畳みかけるようにして響いてきます。そしてどんどん読んでいるうちに「これが人生なんだよ」と言われているような気がしてくる。でも、陰鬱な話をこれだけ生き生きと書かれているのは、そこに惹きつけられるものがあるからでは?

 それはつまり……陰鬱な人びとをめぐる物語は陽気な人びとの物語よりずっと面白いからですよ。文学のテーマはいつでも争い、悲しみです。人生を楽しんでいる人びとの話はつまらない(笑)。

――そうですね(笑)。もうひとつ、とても印象的なのは「ロシア語には〈罪〉を示す言葉が十一もある」と始まる「罪」という掌篇。おじいさんが、「正直に言えば、わたしは罪が好きなんだ」と言う。「罪をもたない人間は好きではない。罪なしに栄えるものはない」と。

 ぼくは実際には一つも〈罪〉というロシア語を知りません(笑)。ロシア語は話せないんだ。でも祖父が陰鬱な人間であったことは事実です。生まれ育ったロシアを去らなければならず、息子二人を戦争で亡くした。よくため息をついていた。長いあいだ、ロシアに帰ることだけを切望していました。

――もし帰っていたとしたら、おじいさんはどうなっていたでしょう。

 それはわからない。同じように陰鬱だったかもしれない。祖父がロシアでもっていた財産は、株やパブロフスクの別荘など、すべて共産党に没収されました。共産党政権下のロシアに残っていたら、貿易商だった祖父は収容所送りになっていた可能性が高い。だから、祖父がロシアにもどることはぜったいに不可能だったんです。

トーン・テレヘン
トーン・テレヘン

 ■お話とほんとうのこと

――物語はすべて「創作」でも、おじいさんとおばあさん、テレヘンさんと思われる〈ぼく〉、そしてお母さん。それぞれの人物像はテレヘンさんのなかにある実在の彼らのイメージなんですね。同じ経験をなさったおばあさんが、まったく陰鬱ではないのが印象的です。

 そう、祖母はいつもエネルギッシュで前向きでした。息子が五人に娘が一人――この娘がぼくの母です――、祖母は思ったんでしょう、沈み込んでいる暇はない、働かなくちゃ、家をきりもりしなければと。祖母のオランダ語には訛りがありました。彼女はオランダ人でもロシア人でもなかった。たくさんいる姉妹たちは、スイスやドイツなどいろいろな国に住んでいた。祖母はお金がなかったから、一度も旅行には出なかったけれど、ジュネーブなどから姉妹がライデンに訪ねてくることはあった。ぼくも子どものころ、母のいとこたちをたずねて、パリやロンドンをよく訪れたものです。

 祖母の名字はブレシェー、スイスのフランス語圏の名です。祖母の母はブランケンベルフという名字で、バルト三国の出身でした。ドイツ人ではないけれど母語はドイツ語で、祖父ともドイツ語で話していた。祖母の父の父は、一八一二年、ナポレオンとともにロシア遠征をし、ナポレオンがフランスに引き揚げたあとも、現在のラトビアの首都、リガに留まったという話を聞いています。

――テレヘンさんのおじいさんは、貿易商でなければ詩人か植物学者になりたかったそうですね。おじいさんが書かれたロシアをめぐるエッセイが出版されていますが、その遺稿を見つけたとき、どんな感想をもたれましたか。

 これはすごい、特別なものだと思いました。祖父がオランダに逃れてきてから十年程たった一九二九年ごろ、ぼくが生まれるずっと前に書かれたもので、これを読むと、まだしっかり人生を歩んでいるエネルギッシュな男の姿がうかがえます。ぼくが知っている陰鬱な祖父とは別人のようでした。

 祖母が捨てようとしていた原稿を母が救いあげ、そのまましまい込んでいたものをぼくが見つけました。祖父がそれを書いてから五十年が経っていました。

 医師として働いているときだったので、夜の時間を使って祖父の手書きの草稿をタイプで打ちなおし、スペルミスを修正しながら数週間かけて完成させました。その後、長いあいだ眠らせたままだったのですが、あるときシャルル・ティマーという著名な作家・詩人で、ロシア文学の翻訳者でもある人物に見せたんです。すると彼は、これはとても面白い、出版すべきだ、と言ったのです。この祖父の回想録は、ロシア語を学んだ妹といっしょに監修し、『ロシアの記憶』というタイトルで、二〇〇四年にケリド社から出版されました。

――さいごの三つの掌篇「翼」「葬儀」「ステップ」からは、とりわけ強くおじいさんへの哀惜が感じられました。

「葬儀」の一部は祖父のお葬式で実際に体験したことそのままです。オランダでは、葬儀で涙を流して悲しんでいた人たちが、そのあとみんなでコーヒーを飲みはじめると、とたんに陽気な雰囲気になることがよくあるんです。長く会っていなかった人たちが誰かの死の機会に集まるわけですからね。まだ幼かったぼくは、その陽気さがすごく嫌だった。祖母を見ると、ひとり悲しみに沈んでいました。誰もそんな祖母を気にかけていなかった。ぼくも祖母に話しかけなかった。そのことを、ずっと忘れられずにいました。

 ぼくの長兄のベンは祖父のことを、いつもため息ばかりついているつまらない男だと言っていました。ぼくはいつも祖父の肩をもった。「だってあれほど多くの悲惨な体験をしたんだから。ぼくだってそんな体験をしたら、ため息をつくと思う」と言って。ベンは聞く耳をもちませんでしたが(笑)。

――読み終えると、〈ぼく〉とテレヘンさんのおじいさんへの鎮魂の思いが、しみわたるように伝わってきます。

(二〇一七年六月十一日、アムステルダム)

通訳・翻訳 Saki Nagayama/取材・構成 Rieko Sugai(Shinchosha)/Special thanks to Dutch Foundation for Literature

新潮社 波
2017年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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