『ほしのこ』
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繊細な言葉が心を潤す 芥川賞第一作
[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)
天(てん)には戸籍がない。体の不自由な父親と彼女が暮らす、捨てられたバスには電気もない。お金もない。それでも何も困らない。二人は森で最小限の食べ物を見つけて暮らしている。それは、男たちに追い出されて海辺の小屋に移っても変わらない。
代わりに天は、人々が知らないことを知っている。晴れた日、上を向いて口を開けると喉が温かい。頭のへんと足のへんで、時間の流れ方が少しだけ違う。星を千まで数えたら、ものすごく大変だ。天は言葉に頼らないから、体の感覚をうんと研ぎ澄ますことができる。だから決して退屈しない。
天にとって、すべての生きものはつながっている。体の中を流れる水は巡り、川となり海となる。そして雨となり世界に降り注ぐ。それだけじゃない。彼女は小屋にも話しかける。「小屋は長いこと一人でいたから何もいわなかった」。彼女の夢には、すでに死んだ人々も出てくる。いや、夢と現実の区別なんて天にはない。だから生死もそんなに違わない。ただ、ちょっと在り方が異なるだけだ。
けれども、言葉に頼り体の感覚を忘れた人々は、命のつながりを忘れてしまった。その極端な状態が戦争だ。復讐が復讐を生む。相手は体を持たない、敵という抽象概念でしかなくなる。だから平気で撃ち殺せる。
天は山に入り、戦争から逃げてきて墜落した飛行機乗りを救う。そして温泉で、彼が殺した兵士の亡霊と飛行機乗りを引き合わせる。取り返しのつかないことをしてしまった、と謝る彼に、戦争から逃げられたあなたは偉い、と兵士は返す。それは、立派であることを放棄して体の感覚に従うということなのだから。
現代の社会を根源的に批判できる場所には、小さくて弱い者たちがいる。彼らの視点に同一化しながら、著者はとても繊細な言葉づかいで、ふだん我々には見えないものを掬い上げる。この作品に流れる水分が、我々の干涸らびた心に潤いを与えてくれる。