『省筆論』 田村隆著

レビュー

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

省筆論

『省筆論』

著者
田村隆 [著]
出版社
東京大学出版会
ISBN
9784130830737
発売日
2017/07/31
価格
3,132円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『省筆論』 田村隆著

[レビュアー] 尾崎真理子(読売新聞本社編集委員)

源氏物語、書かずの効力

 『源氏物語』の口語訳には、当代の人気作家が次々と挑んできた。紫式部に同時代人のような近しさを感じたという訳者も多いが、その理由は、本書が着目した「省筆」によるところも大きいだろう。

 省筆とは、物語の地の文に「書かず」「漏らしつ」「忘れにけり」等々、書かなかった痕跡をあえて書き残し、生身の語り手の意志をそこにのぞかせる手法を指す。より古い『土佐日記』などにも出てくるが、本書は〈『源氏物語』に至ってはじめて豊かに用いられる〉という立場から、五十四帖(じょう)中64か所に上る省筆の、さまざまなニュアンスや効力を厳密に読み解いていく。

 紫式部は「女のまねぶべきことにしあらねば」などと政治の話題や漢詩を省く一方で、「宇治十帖」に入ってからは、男女の恋の顛末(てんまつ)についても「うるさければ書かず」と省略している。その態度は一見かなり自由で、一つ一つは些末(さまつ)な省筆とみえる。ところが、全体を通して読めば、光源氏の死や藤壺との最初の密通のように、断り書きすらない〈本当の意味で書かれなかったこと〉、すなわち「大省筆」と呼ばれる謎を読者が受け止める〈免罪符〉ともなっていると著者は推察する。

 では、口語訳を手掛けた作家は、この手法をどう解してきたのか。

 谷崎潤一郎、円地文子らは「書かず」をそのまま逐語的に訳した。これに対し、与謝野晶子訳は大胆に「書かず」の部分を省略したり、逆になぜ書かないのか、自身の解釈を加えた箇所もあるという。その与謝野訳が最も省筆に意識的で、〈原文が持つ語りの構図を際立たせる〉と評価している点も興味深い。

 「省筆」の語で最初に源氏を評したのは幕末の国学者、萩原広道。『源氏』に生涯を捧(ささ)げた学者は池田亀鑑はじめ高い山脈を成し、なお争点は尽きていない。本書は歴史的経緯を十分踏まえた上で、異論も提出する。困難な道を選んだ研究者の、気概と覚悟も伝えられた。

 ◇たむら・たかし=1979年山口県生まれ。九州産業大講師を経て東京大准教授。専門は平安時代の物語文学。

 東京大学出版会 2900円

読売新聞
2017年10月8日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

  • このエントリーをはてなブックマークに追加