<東北の本棚>御家の断絶と再興頓挫

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<東北の本棚>御家の断絶と再興頓挫

[レビュアー] 河北新報

 会津地方を約400年にわたって治め、戦乱の渦に巻き込まれて角館(仙北市)に追われ御家断絶した蘆名家にまつわる歴史を、頓挫した再興運動を中心に読み解いた。
 蘆名家は黒川(若松)城主だった1589年、伊達家との戦いに敗れ、常陸(茨城県)に逃げ落ちた。豊臣秀吉から4万8000石を与えられたが、関ケ原の戦いで西軍にくみしたとされ改易。同じころ秋田藩に国替えされた佐竹家の家臣となり、角館を与えられた。
 大名としての蘆名家最後の当主義廣(義勝)は秋田藩佐竹家の初代藩主義宣の弟。蘆名家の養子となった。著者は蘆名家が悲劇的な結末を招いた最大の理由に「濃い血縁」を挙げる。
 角館の街並みは江戸時代初期、蘆名家の家臣団が中心となって造った。大名としての復活を願った会津武士の執念の表れとみられる。
 1631年に義勝が亡くなり、以後の跡継ぎも相次いで早世。23代当主千鶴丸が53年、4歳で不慮の死を遂げ、蘆名家は断絶した。
 一部家臣が家名存続と御家再興を目指し、3年にわたり運動した。佐竹家は藩内のもめ事を幕府に知られることを恐れたとみられ、運動に協力しなかったため、多くの家臣が離反し、運動は不調に終わった。
 「何といっても武士の意地とやせ我慢が根底にあった」。運動に加わった家臣たちの心理をこう読み解く。多くの家臣が離反した点については「御恩と奉公の関係は滅び行くものには非情であった」と考察する。
 運動の中心だった複数の元家臣らが編集したとされる「蘆名記」を主な史料とし、埋もれていた史実を掘り起こした。
 著者は1940年東京生まれ。東京経済大経済学部卒。民衆思想史研究所(東京)代表。主著に「多摩近現代の軌跡」「自由民権に輝いた青春」などがある。
 無明舎出版018(832)5680=1836円。

河北新報
2017年10月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河北新報社

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