『日本男子♂余れるところ』
書籍情報:openBD
男子の股間にぶら下がる「煩悩の源」の存在理由
[レビュアー] 鈴木裕也(ライター)
興味が湧くとつい調べてしまい、調べていくにしたがってわからないところが増えていくという高橋秀実ノンフィクション。今作の探求テーマはなんと『古事記』でイザナキが「成り成りて成り余れる処」と呼んだ男根。平たく言えば「おちんちん」について高橋さんがひたすら調べ、考え抜いた。
きっかけは滝行だった。なぜか滝に打たれているうちに股間が激しく勃ってしまったのだ。仏教語では男根のことを「魔羅」(修行の邪魔になるもの)と呼ぶ。余っているところだから邪魔になり、邪魔だからこそ修行になる。つまり「魔羅」がなければ修行にならない。目の前に余っている男根に気づくことが真理への道なのではないか――。
まず身近なところから当たるのが高橋流。日本男児の平常時の平均サイズは八・三センチ。はたして自分自身は? だが計測は簡単ではなかった。なにしろ計測しているうちに形状が変化してしまう。平常時を測定しようとすると大きくなり、最大時を測定しようとすると縮んでしまう。軍隊が平常時、医学会が勃起時のサイズを測定した記録を残しているが、いったい彼らはどうやって測定したのか疑問が生まれてしまった。
こうして高橋さんの取材意欲に火がつき、オナニーと勃起障害、包茎、わいせつ問題、宗教や生物学など、さまざまな角度から「余れるところ」について取材を重ね、考え抜いていく。どのジャンルにもその道の「通」はいるもので、「射精は習得するもの」という泌尿器科の医師、三万本の男根を包茎治療した医師、男根の形をした縄文期の「石棒」を展示する博物館の学芸員、百人以上の男性とセックスしたという男性愛者、男根を御神体とする神社の神主、“一家言”を持った一般男女たち……次々と生まれる謎を解明するために取材相手に会いに行く高橋さんの姿はまるで「巡礼」だ。そして巡礼とはまさしく「修行」そのもの。
実は取材というものは、重ねれば重ねるほど原稿に生かせない部分が増えていく。つまり、「余っているネタ」が増えていく。成り成りて成り余る男根のようなものをいかに増やすかがノンフィクションの鍵だと言ってもいい。本書を読んで、改めて取材は修行だったのだと感じさせられた。苦しいのは当然だったのだ。
著者も男根について取材しすぎて勃起障害になってしまうが、それでも探求をやめない。最終的に高橋さんは修行僧のような「境地」に達する。これには読んでいる私まで、神が男子に煩悩の源ともいえる男根を具えさせてくれたことに感謝したい気持ちになった。
高橋さんはもうひとつ、取材を通じて大事なことに気がつくのだが、それは本書を読んでほっこりしてください。