『みちづれはいても、ひとり』
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おばさんになりたかった――『みちづれはいても、ひとり』著者新刊エッセイ 寺地はるな
[レビュアー] 寺地はるな
二十歳の時、当時三十代後半ぐらいの男の人に「若いうちが花だよ。おばさんになる前にせいぜい人生を楽しんでおいたらいいよ」というようなことを言われたことがあった。そのおばさんになったらもう人生を楽しめないみたいな言いぐさにびっくりして「なぜですか?」と訊ねてもその人は「そうに決まってるじゃないか」の一点張りで、意味がわからなかった。
その後しつこく訊ねてようやく聞き出した理由は「だって男は若くて素直で愛嬌があってかわいい女の子が好きだから、それらをすべて失った状態である『おばさん』になったら男から親切にしてもらえることもなくなるし、だから人生楽しくないに決まってる」というもので、それを聞いた私は「なんだよ! そんなことかよ!」と呆れ、同時に安堵したのだった。じゃあ別にいいではないか。
だって「おばさんは若くないしかわいくないので親切にしなくてもいいや」と考えるような人に好かれるのが、そんなに幸せなことだろうか。むしろ非常にめんどうくさい人生ではないだろうか。ならば私は、はやくおばさんになりたいと願った。ちなみに今年四十歳になり、念願は果たされた。おおむね想像どおりだった。二十歳じゃなくなっても、人生は楽しい。
『みちづれはいても、ひとり』の主人公である弓子と、その友人の楓というふたりの女性は、前述の彼から見ればまさしく「かわいくないおばさん」なのだろうと思う。
キャリアとか幸福な家庭とかを手にしていないから、同性から憧れられるタイプでもない。でも私は、このふたりを不幸な女たちであるとはまったく思わずに書いた。ふたりとも、自分の人生の落としまえを自分でつけている。
自分が幸せかどうかを「なにをどれだけ所有しているか」で判断すると見えなくなるものは、きっとたくさんある。