わかり合うより重要なのは 角田光代/『アナログ』ビートたけし

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アナログ

『アナログ』

著者
ビート たけし [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103812227
発売日
2017/09/22
価格
1,320円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

わかり合うより重要なのは

[レビュアー] 角田光代(作家)

 水島悟は設計会社の一部門である、工業デザインを扱う研究所で働いている。三田のマンションでひとり暮らしをし、仕事帰りには高校時代からの友人たちと飲み、休みの日には埼玉の施設に入居している母親に会いにいく。職業も住まいも暮らしぶりもイマドキの若人に見える悟だが、イマドキの「便利さ」「いけてる感」が苦手で、自身の暮らしからは排している。都心に住みながら彼が好んで通うのは、昔ながらの家族経営の食堂だし、友人たちといくのも広尾の焼き鳥屋。デザインの仕事もコンピュータ処理ではなく手作業を好む。かといって、コンピュータも携帯電話も現代的ツールは一切合切拒絶しているわけではない。彼が信じられるものは、デジタルではなくアナログ的なもの、ということになる。

 悟はあるとき広尾の喫茶店でみゆきという名の女性と出会う。ひょんなことから言葉を交わし、ある約束をする。相手を拘束するような約束ではない。しかも二人は、なんとなくの成りゆき上、携帯の電話番号もメールアドレスも交換しない取り決めを交わす。連絡を取り合わないという条件の上に、約束を交わしたことになる。

 この二人の取り決めを、異様だと思うか、それもありだと思うかは、年齢によってわかれるはずだ。だれかに連絡したいときに、すでに携帯電話が存在していた世代にとっては、この二人の関係は矛盾した、一種異様なものに思えるだろう。親しくなろうとしているのに、親しくなることを拒否している、そういう矛盾である。

 成長後に携帯電話が普及した世代は、この二人のありようにさほど抵抗はないはずだ。私を含むその世代が若かったときにはこのような通信手段はなかった。恋人が待ち合わせにこなければ、何時間でも待つか、あきらめて帰るしかなかった。固定電話はあるが、居留守などいくらでも使える。会いたくない人に会わなくなるのは今よりずっとかんたんだった。それは裏返すと、会いたい人に会うのは今よりずっとたいへんだった、ということだ。だから、古い世代に属する私にとって、この二人の取り決めはそう不思議でも異様でもなく、運命を信じたい理由がそれぞれにあるのだろうとすんなりと納得する。携帯電話がない時代、会いたい人に会い続けるのは運命だった。約束をしていなくてもばったり会い続けるのはまさに運命だし、また、おたがいが同じ気持ちで会おうとしているかぎり会える、これもある意味で運命だし、ちょっとした奇跡だ。

 この小説を説明するのに私は幾度か「信じる」という言葉を使っているが、まさにそれが悟という人間をあらわしている。信じられるか、信じられないか。それが彼の人生の尺度であり基準だ。彼が信じられないものは合理的でも偽物であり、彼が信じられるものは実体がなくても本物になる。

 本物の最たるものが、母だ。父親のいない悟にとって、母親は観音さまみたいな存在である。彼の母親への思いは信仰に近い。信仰心が満たされることがないように、彼の思慕の念が満たされることはない。彼が求めているのは母の愛ではなく、母の愛に報いる何かだからだ。彼の感じる母の愛は大きすぎて、それに見合うものを報いきれない。そのことに悟はずっと苦しんでいる。そしてそれは、悟にとっての愛し方である。愛を求めるのではなく、愛を与えるのでもなく、信じ、かつ、信じたものに報いようとする姿勢こそが。

 この小説がいわゆる「ふつうの」恋愛小説と異なるのは、みゆきという女性の内面がいっさい描かれないところだ。みゆきが何を思い、悟に何を感じているのか、読み手にはわからない。しかし、だから悟とのあいだに焦れったい軋轢はない。誤解したり早合点したりすることもなく、言葉足らずや不要な言葉で相手を傷つけることもない。二人のあいだにあるのは感情よりむしろ運命だ。携帯電話を介さないことで、彼らがつながろうとした唯一の方法である。悟が、もしかしたら恋より性より信じているものとしての、運命。

 帯には恋愛小説と書いてあるし、分類としてはそれが正しいのだけれど、私にはなんとなく求道小説と呼びたいような作品だった。わかり合うことより信じることに重きを置き、捧げられることではなく捧げることを願い、与えられることより報いることに心を砕く、悟の愛のありようによって、そう思うのだ。

新潮社 波
2017年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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