『奇跡の歌』
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名曲「南国土佐を後にして」歌に込められた深い歴史
[レビュアー] 東えりか(書評家・HONZ副代表)
二〇一七年四月一二日、ペギー葉山が亡くなった。昭和三四年「南国土佐を後にして」が百万枚を売り上げて国民歌手となり、亡くなる二週間前まで舞台にいた大スターだ。
この曲には曰くがある。誰が最初に作り歌ったかが明らかではないのだ。門田隆将は出身地である高知のこの愛唱歌の謎を探っていく。
第二次世界大戦下、高知を中心とする四国出身者は「鯨部隊」と呼ばれ、中支・南支で終戦まで戦い抜いた勇猛部隊として知られていた。闘いの合間のささやかな宴席では「南国節」という歌が歌われていた。
南国土佐を後にして 中支に来てから幾歳(いくとせ)ぞ…
誰が作ったか分からない。歌詞も節回しも歌う人によってそれぞれだ。だが、郷愁に誘われた兵隊たちは、故郷を偲び行軍中も密かに口ずさんで心を奮い立たせた。
そんな兵隊たちの傍らには一頭の豹がいた。迷子の豹を「ハチ」と名付けて兵隊たちはペットとして可愛がった。歌と豹、辛い戦争の中、心の拠り所はそれしかなかったのだ。戦火が激しくなり、ハチを飼いきれなくなった部隊は上野動物園に預けることを決め日本に送った。悲しい運命が待ち受けているとも知らずに。
終戦となり鯨部隊は祖国に戻る。ある者は戦争中の思い出を手記にし、ある者は村役場に勤め、自治の復興に貢献した。事業を始めた者もいる。その力が高度成長期の礎を築いた。
そのころ、アメリカのジャズを歌いこなすペギー葉山という女性歌手が徐々に人気を得ていた。日本人には珍しいアルトの声で「南国節」を歌わせたい。NHK高知放送局開局記念番組でペギーは初めて歌った。それが大ヒットの第一歩だった。
闘いに倦んだ兵隊もジャズだけを歌いたいペギーも、そして日本で幸せに暮らせるはずだったハチも「南国土佐を後にして」という歌で運命が変わった。一つの歌が激動の昭和と平成を駆け抜けた記録である。