『はじめてのジェンダー論』の執筆を終えて

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はじめてのジェンダー論

『はじめてのジェンダー論』

著者
加藤 秀一 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/社会
ISBN
9784641150393
発売日
2017/04/20
価格
1,944円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『はじめてのジェンダー論』の執筆を終えて

[レビュアー] 加藤秀一(明治学院大学社会学部教授)

『はじめてのジェンダー論』は、ジェンダーという言葉ぐらいはかろうじて見聞きしたことがあり、漠然としたイメージも興味関心もあるが、しかし他人から説明しろと言われると困るといった読者のために、ジェンダー論――実質的にはジェンダーの社会学――のごくごく基本的な概念装置やそれを使って見える現実社会のメカニズムについて解説する本である。
 本書は特段の予備知識を要求しないまったくの「入門書」であり、また大学で1セメスター(2コマ)の授業で「教科書」ないしは副読本として利用されることを想定・期待して書かれている。より具体的に言えば、想定された読者は筆者の本務校である明治学院大学の2、3年生である。とは言っても全員ではない。かれらのうち、少なくともジェンダーにかかわる問題にそれなりの関心をもち、興味を惹かれた授業なら真面目に聴いてノートもとるような、そういう可能性をもった学生たちがターゲットだ。筆者の経験にもとづく見立てによれば、この基準にあてはまる学生は履修者のうちおよそ6、7割を締める「中間層」である。それよりも上位1割の学生はもともと活発な知的好奇心をもっていて、授業も能動的に聴こうとするので、こちらの力量を尽くして誠実に講義しさえすればよい。わからない点は質問しに来てくれる。逆に下位の2割ほどは、そもそも知的な作業に関心がなく、教師が何を話そうがスルーするタイプである。大学における授業の成否は、このような下位層をきっぱりと切り捨てて(学問と無縁の人生もあっていい)、上位層を惹きつけるに足るレベルを維持しながらも、中間層にどれだけ刺激を与えられるかにかかっている(こうした限定を的確に行なわないと、結局すべてがダメになってしまう)。本も同じだろう。女性を見下すことや性的マイノリティを気持ち悪がることでおのれの実存を支えているような読者を改心させることはほとんど不可能である(そういう作業に取り組んでいる人には敬意を表するけれども)。しかしそんな相手は実はそれほど多くなく、大半の人々は十分に「話の通じる」人たちであるはずだ。そうした潜在的読者がジェンダー論について無知だったり、漠然とした偏見をもっていたりするなら、かれらに語りかけるためにこそ貴重な時間と労力を費やすべきだろう(と、そんなことを思いながら本書を執筆していたのだが、刊行後にウェブマガジン『WEZZY』2017年6月14日付に掲載された森山至貴氏による書評で本書が「聞く耳を持ったあなたに読んでほしい」「説得の書」であると、まさに自分の思いそのままに形容されていたので驚いた)。
 本書の内容的な特色については、無責任で申し訳ないのだが、実は自分ではよくわからない。よく「社会学とは常識を疑う学問である」といったことが言われるが(そして筆者自身も、受験生向けの宣伝のためにそうしたお手軽な言い回しを使ったりもするのだが)、そもそも常識に収まらない対象への「驚き」から始まるということは、アリストテレス以来、社会学のみならずおよそ学問なるもの一般の特性ではないだろうか。それはさておき、本書に書いたことは筆者にとってはきわめて常識的でアタリマエと思われることばかりなのである。「ジェンダー」という概念自体にしてからがそうだ。この言葉は「社会的性差」と訳されることがある。しかしこの訳語を見て「なるほど、そういう意味か」と納得する人はたぶんどこにもいないだろう。「ふんふん、そう訳すのか。それで、どういう意味?」――さて、どう答える(=定義する)べきか。「男女の違い、つまり性差には、社会的なものと生物学的なものがあり……」等々というのが、多くの入門書や辞典類に記された定義である。ここで「的」という語は「原因」という意味であろう。したがってジェンダーとは、生物学的な原因ではなく社会的な原因、言い換えれば、体質だの遺伝子だのではなく、「生育環境に由来する性差」を意味しているということになる。
 たしかにこれもジェンダー論の研究対象ではあるだろう。発達心理学等においては適切な定義であるかもしれない。しかしながら他の多くのディシプリン、たとえば社会学や法学や教育学等では、「ジェンダー」を「性差」という意味で用いること、ましてその「原因」を探求の主題とすることは実は少ないのではないか。つまりこの概念は、辞書的な定義と実際の利用法のあいだにズレがあるのではないか。それでは実際にはどのように用いられているのか、そして有意義な使い方はどのようなものか……こうした疑問を素直に追っていった先でたどりついたのが、本書の冒頭に掲げた以下のような定義である。「私たちは、さまざまな実践を通して、人間を女か男か(または、そのどちらでもないか)に〈分類〉している。ジェンダーとは、そうした〈分類〉する実践を支える社会的なルール(規範)のことである」。こんな風にジェンダーを定義している教科書や辞典類は他にないが、よく考えれば奇をてらったものではないということをおわかりいただけると思う。私としては、これまでのジェンダー論(主に社会学)が鍛えあげてきた分析道具としてのジェンダー概念のうち、有意義と思われる部分をシンプルに定式化し直しただけなのだ(ただし、「支える」という文言は「結びついた」等の方がより適切だったかもしれないという迷いは残っている。「支える」では、規範がまず先にあって、それが人々の実践をもたらすという先後関係、さらには因果関係がイメージされてしまう恐れがあるからだ。規範と実践との関係はそのように一方向的なものではない。しかし「結びついた」では初学者にはいかにも曖昧に感じられ、ピンとこないだろう思ったのだ)。

 私はこの本を、内容的には十二分に高度でありながら、表面的には読みやすい本にしたかった。そのために、専門用語を説明抜きに使わない、自明に思える論理的連関もできるだけしつこく説明する等々といったことを徹底して心がけた。さらに言えば、真剣に取り組みさえすれば案外すらすらと読めて、「きっと筆者もノリ良く短時間で書いたんだろうな」と読者に感じてもらえるような本にしたかったのである。その趣旨から言えば、ここでは実際にさらっと書いたようなふりをするのがクールな態度というものだろう。だが情けないことに、筆者にはそんな痩せ我慢を貫く器量がない。というわけで、ここからは執筆過程の苦しみを吐露させていただくことにする。
 そもそも数年前の某月某日、『はじめてのジェンダー論』の執筆を有斐閣書籍編集第2部の松井さんからご依頼いただいたとき、私は反射的にお断りしたのだった。理由はいくつかあった。すでにジェンダー論の入門書を複数刊行したことがあり、幸いなことにどれも版を重ねていたので、同じような本をまた出すわけにもいかない。自分としても同じことを何度も書くのは嫌いなのだ。それに、今や人文・社会科学のあらゆる領域に関説する「ジェンダー論」を、教科書の名に恥じない程度に広く見渡すことは、どう考えても筆者の手に余る。だからといって複数著者による共同執筆は諸事情から考慮の外だった。また、つねに活気にあふれアップデートされ続けているこの分野については、より若く優秀な人材に仕事を委ねるほうがいいのではないか。何より私は自分自身の目下の研究テーマにもっと時間を割きたかった。
 それでも結局は執筆をお引き受けしたのは、今この状況下におけるジェンダー論の啓蒙という企画に大きな意義を見出したからに尽きる(出版まで数年かかってしまったが、残念なことに、本企画の意義は失われていないと思う)。だが案の定、深い後悔の日々がすぐに始まった。内容については言うまでもない。おのれの浅学非才をこれでもかと突きつけられる痛みの日々が、その後の数年にわたって続くことになった。だがこれはあらかじめ覚悟していたことではある。予期し損ねたのは、文章技術上の困難であった。以前、『ジェンダー入門』(朝日新聞社、2006年)を「です・ます」調で書いて(自分としては)巧くいったので、今回も同様にしたのだが、実際に書き始めてみるとどうも勝手が違う。前著では〈そもそもジェンダーとはどういう意味か〉という理論的な問題をひたすら丁寧に説明すればよく、また〈講義の実況中継〉風の語り口を採用したため、ジョークや雑談を適宜織り込む余裕もあり、それなりにリズムのよい、カラフルな文体をつくりあげることができたと思う。それに対して本書では、教科書として使えるように具体例やデータをなるべく豊富に入れ込んだのだが、〈頭の中にある理屈を言葉にする〉場合に比べて〈現実の事象について言葉で説明する〉場合、どうしても文末が「です」や「ありません」といった定型句の反復になりがちで、文体が硬直してしまうのである。そのうえ、引用はするのに学術論文のような注や文献表はつけないという縛りもあったため、どのように書けばよいのか、最後まで自分なりに納得のいく文体を構築できなかったことは実に苦しかった。
 それでも今は、執筆を依頼し、また予定をはるかに超えて続いた執筆作業を辛抱強く見守ってくださった編集担当の松井さんには心から感謝している。実際に走り終えてみれば、本書の執筆作業から自分が得たものの大きさは計り知れない。何ごとであれ、自分が本当に理解していなければ、他人に説明することはできない。相手が初心者ならなおさらだ。本書を書くことで、私は自分に何がわかっていて何がわかっていないか(わかったつもりになっていただけか)を明確に知ることができ、そして後者については改めて勉強し、考えを整理することができたのである。
 とはいえ、私が(短い記事や分担執筆は別として)「ジェンダー論の教科書/入門書」を書くのはこれが最後だと思う。もしかしたら『はじめてのジェンダー論』の増補改訂をする可能性はあるが(その際には、時間切れで断念した幻の最終章「フェミニズム運動と性的マイノリティの解放運動の歴史」を書き加えたい)、次は新たな世代の手によって、本書を過去の遺物とするような斬新な教科書が書かれるべきだろう。誰よりも私自身が、そういう本を読みたいと願っている。

書斎の窓
2017年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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