『台湾人の歌舞伎町――新宿、もうひとつの戦後史』
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名曲喫茶、キャバレー……彼らがもたらしたもの
[レビュアー] 山村杳樹(ライター)
赤裸々な欲望が渦巻き、様々な人種が群れ集う、猥雑で時に危うさを漂わせる街――。新宿・歌舞伎町については多くの著作が書かれているが、本書は、今まで書かれることのなかった視点から描かれた“もうひとつの歌舞伎町史”である。昭和二〇(一九四五)年四月と五月の空襲で、新宿駅から歌舞伎町(当時の名称は角筈一丁目)にかけての一帯は焼き尽くされた。焼け残ったのは、「二幸」「高野」「三越」「伊勢丹」などのわずかな建物だけ。しかし、敗戦後わずか五日目に、関東尾津組が、この焼け跡に「光は新宿より」のスローガンを掲げて「新宿マーケット」を開設したことはよく知られている。これに続いて新宿駅西口に「新宿西口マーケット」が登場した。ここに集まったのが、若い台湾人留学生たちである。昭和二〇年には累計二〇万人を超えていたという彼らの一部は、戦後も日本に残り、“解放国民”としての特権を生かして闇市で活躍した。
パチンコ店から焼酎バー、焼き鳥バーと業態を変えながらしぶとく生き抜いた彼らは、更なる飛躍を求めて歌舞伎町に進出する。新宿西口で大規模再開発事業が進められ、立ち退きを迫られたため新天地が必要だったからである。
角筈一丁目が歌舞伎町という名称に代わったのは昭和二三(一九四八)年四月。敗戦後、いち早く構想された復興計画で、この地に歌舞伎劇場を建てる予定だったためこの町名が選ばれた。しかし、建築制限や物資不足などで計画案は停滞し、歌舞伎座建築は見送られ、一帯はラブホテルが乱立する青線地帯と化していた。
この歌舞伎町に、昭和二八(一九五三)年から翌年にかけて、『でんえん』と『スカラ座』の二つの名曲喫茶が開店。さらに、歌声喫茶『カチューシャ』がオープンした。いずれも台湾人の留学生兄弟がオーナーだった。
昭和三一(一九五六)年一二月、東宝の小林一三が新宿コマ劇場を建てた頃から、折からの映画ブームもあり、歌舞伎町は若者が集まる一大興行街としての地位を確立していった。そして、この街に若い台湾人たちが、次々に娯楽施設を開設していくのである。『風林会館』『クラブ・リー』『キャバレー女王蜂」『アシベ会館』『地球会館』……。喫茶店も『上高地』『シオン』『ぶるんねん』などが加わった。歌舞伎町に通ったことのある人には、いずれも懐かしい店ではないだろうか。
台湾人たちは強い同胞ネットワークを持ち、「無尽」による資金調達と独自の金融組織で新事業に挑戦していった。しかし、歌舞伎町の発展を支えた一世たちも、次々と世を去り、今では彼らの証言を聞くことは難しくなっている。本書は、忘れ去られつつある彼らの足跡を、辛うじて書き留めた貴重な記録と言える。