宮部みゆき 書評「“私”はどこに行くのか」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

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ダレカガナカニイル…

『ダレカガナカニイル…』

著者
井上 夢人 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784062739498
発売日
2004/02/13
価格
1,045円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

“私”はどこに行くのか

[レビュアー] 宮部みゆき(作家)

宮部みゆきさんの最新作『この世の春』は、多重人格が大きなキーワードのひとつになっています。宮部さんは、小学校高学年の頃から多重人格症をテーマにしたドラマに夢中になっていたとのこと。もしかしたら、小説の最初の芽は、その頃に芽生えたのかもしれません。井上夢人さんの書き下ろし作品『ダレカガナカニイル…』の書評です。

 ***

 小学校の高学年のころだったと思います。とても怖いテレビ番組を、怖いからこそ毎週楽しみに観ていたことがありました。それは三田佳子さん主演のドラマで、一人の平凡な主婦であり母親である女性の身体のなかに、もともとの彼女とはまったく逆のパーソナリティを持った女性の人格が、突然生まれてしまうという内容でした。彼女は臆病なくらいおとなしい性格の人なのに、新たに生じたその人格は、自由奔放我儘勝手で、さまざまなトラブルを起こします――と、こう書けば、もうお気づきの方も多いと思いますが、このドラマは、多重人格症の症例研究としてあまりにも有名な『私のなかの他人』を翻案したものでありました。後年、それを知って、なんとまあ背伸びしたドラマを観ていたものだと、我ながら呆れてしまった。

 さて、こんなことを思い出したのは、ほかでもない、井上夢人氏の書き下ろし作品『ダレカガナカニイル…』(新潮ミステリー倶楽部、一月刊)を読んだからでした。秀作『クラインの壺』を最後に解散し、それぞれの作家活動を開始された元・岡嶋二人のお二人が、これからどういう作品を読ませてくれるのかと、固唾を飲んで待っている方はたくさんおられることと思います。そのなかで、ここでまず、井上泉さん改め井上夢人さんの長編第一作をどかんと御紹介する役割をいただき、一ファンとして、わたしはたいへん光栄です。

 本編の主人公――「僕」は二十八歳の青年、西岡悟郎。関東警備保障というところでガードマンとして働いていますが、ちょっとしたトラブルが元で、同僚たち皆が嫌がっている、「解放の家」という新興宗教団体本部の警備担当へと飛ばされてしまいます。そして、現地へ到着したその日に、不思議なものに遭遇、そのときから奇妙な現象に悩まされ始めます。その現象とは――

 頭のなかで、声が聞こえる。

 たしかに、聞こえる。「僕」の頭のなかに、僕ではない誰かがいて話しかけてくるのです。それはどうやら女性のようですが、その「意識」本人(?)も、自分がどこの誰であるかさっぱりわからず、主人公同様困惑してしまっているのでした。

 かくて、主人公の苦闘が始まります。頭のなかの声は彼に語りかけ、自分の存在を主張し続ける。その一方で、主人公は自分が精神病にかかっているのではないかと怯えつつ、なぜこんなことになったのか、どこに原因があったのかを探ろうと、調査に乗り出します。つまり、彼は、頭のなかに飛び込んできた「意識」の身元探しをしながら、自分で自分の「正気」を確かめていかなければならないという、まことに気の毒な立場におかれてしまったわけなのです。

 大部の長編ですが、主人公と「意識」の奇妙な二人三脚の身元探し調査行に、「解放の家」で起こった密室状況での放火殺人事件の謎がからんで、最後までぐいぐいと惹きつけます。同時に、この主人公が、頭のなかにどっかと居座っている「意織」を理解し、認め、時には反発して突っ放し、絶望し、また立ち直ってゆくあいだに、「私」とはなんだろう、「正気」とは何をもって判断されるのだろう、「心」はどこにあるのだろう――そんな様々な命題に、身を以て立ち向かっていく、その過程にも、多くの読みどころがあります。ちょうど、『私のなかの他人』のヒロインが、多重人格症に陥り、それを治癒してゆく過程で、自分が意識下に押し込めてきた暗い記憶と向き合い、自分の人生を再構成してゆく勇気を勝ち得ていったのと同じように、この主人公も、外から別の「意識」という異物に飛び込まれたことによって、初めて、それまで漠然としかとらえていなかった「個」としての自分を感じ、「自分」という内的宇宙を覗き込む機会を与えられたのです。

 そして、最終的に、彼がそこで見たものは――

 この驚愕の真相を、救いととるか絶望ととるか、意見の分かれるところだと思います。そして最後の一行を読み終えたとき、そこには、読み始めたときよりももっと大きな、根源的な謎が待ち受けていることに気づかれることでしょう。

「私」には、終わりというものがあるのか?

「私」はどこへ行くのか?

 読者諸賢の皆様。ぜひ、ご自分の目でそれを確かめてみてください。

新潮社 波
1992年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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