宮部みゆき 書評「難しいことを、わかりやすく」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

墨子

『墨子』

著者
浅野 裕一 [著]
出版社
講談社
ジャンル
哲学・宗教・心理学/哲学
ISBN
9784061593190
発売日
1998/03/10
価格
1,122円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

難しいことを、わかりやすく

[レビュアー] 宮部みゆき(作家)

新生した「日本ファンタジーノベル大賞2017」が、先日「権三郎狸の話」に決定いたしましたが、平成元年、第一回「日本ファンタジーノベル大賞」受賞者の酒見賢一さんの受賞第一作『墨子』の書評を宮部みゆきさんが、「波」に寄せていました。

 ***

〔墨子〕 春秋時代の思想家。魯の人。姓は墨、名は■(■=てき 羽+隹)。(中略)その著「墨子」は、現存本五三編。兼愛説と非戦論とを唱えたもので、門弟の説も含まれているといわれる。

 広辞苑第三版には、こう説明されています。正直言って、これだけではさっぱりわからない。

 ところが、酒見賢一さんの『墨攻』(三月、新潮社刊)は、そういうわたしでも面白く読むことができるのです。さらに、よくわかるのです。いえ、わかったつもりになっているだけなのかもしれませんが、それだってわたしには凄いことなのでした。

 酒見さんは、平成元年、第一回の日本ファンタジーノベル大賞を『後宮小説』で受賞され、作家デビューされました。この作品は、多くの読者に両手を広げて迎えられ、楽しまれ、愛された小説です。いきなりその年の直木賞候補にもなり、三十万部を売り、アニメ化されたドラマも人気を博しました。

 当然、と思います。『後宮小説』はそれだけの価値も魅力もある作品ですし、酒見さんは、「文学界の野茂投手」にたとえることのできるダイナマイト・ルーキーだったのです。

 その酒見さんが、次作ではどんなことをやってくれるのだろう――多くの読者が期待を募らせているところだろうと思います。そこへ登場するのがこの『墨攻』であります。

 文学界の野茂投手に、二年目のジンクスはありませんでした。そして『墨攻』を手に取った読者は、あらためて、著者が中国哲学を専攻した人であることを思い出すでしょう。
『墨攻』の第一章は、主人公の革離(かくり)が梁郭(りょうかく)を訪ねてやってくるところから始まります。彼は墨子の教えと自ら信じるところに従って、大国趙に攻められようとしているこの小さな城を守るため、ただ一人遠路を旅してきたのでした。著者は、粗末な身形(みなり)に頭を青々と剃りあげた革離が、彼を出迎えた梁城の人たちと、先が案じられるような噛み合わない会話を交わす場面を描いたあと、
「墨子(墨■)という奇妙な思想家が活躍していたのは紀元前五世紀頃だと推定されている」と前置きして、革離が属するこの不思議な思想集団について語り始めます。「非戦論」を掲げ、身をすり減らして他人に奉仕することを旨とする集団が、同時に、非常によく訓練され鍛えあげられた凄腕の戦闘集団・傭兵部隊でもあった――また、そうならざるを得なかったいきさつや時代背景を、明快に簡潔に説明してゆくのです。

 難しいことを、わかりやすく。しかも血肉を通わせて語る酒見さんの話術には、もう何十冊も著書を重ねてきたベテラン作家のような自信と落ち清きが感じられます。紡ぎだされる物語は、それだけでも読者を惹きつけてやまない面白さに満ちています。『墨攻』の後半は、阿鼻叫喚砂埃うずまく戦闘シーンの連続ですが、映画のように臨場感に溢れ、耳元をかすめて飛んでゆく弓矢の音さえ聞こえるようです。戦闘が始まる前の、革離が梁城の全権を掌握し、邑人たちを導いて闘いに備えてゆく場面を読んでいるとき、わたしは思わず「うーん、これは『七人の侍』ではないか!」と唸ってしまいました。

 ただ、革離には他に六人の仲間はいません。彼は単身で派遣され、仲間の助けを得ることもできない状況に置かれているのです。鬼神に憑かれたように働き続ける彼は、そのことをさして気にしているようにも見えませんが、読者には、ここで革離が独り放り出されたようになっていることの深い意味が、おいおいわかってきます。

 どんな思想であれ、宗教であれ、一度「団体」という形を成してしまうと、そこには政治が生まれてきます。「大義のためだ」と革離を説く教団の長、田襄子(でんじょうし)の言葉に、革離が頷くことをしないのは、その「政治」を嫌うからでありましょう。

「救いを求める小城を見捨てて何で墨者と申せましょうか」

 革離にとっては、それがAからZまでの真実なのです。

 淡々と生き、淡々と教えに従い、淡々と戦って死んでゆく。革離は決して英雄ではなく、ある意味では偏狭でさえあったかもしれない一人の人間です。その彼の姿を描くことで、酒見さんは、「墨子」という思想のなんたるかを、戦いと平和のなんたるかを、鮮やかに描きだしています。学校の歴史の授業が、ある塔の高さを示すとき、ただ「百メートル」と計るだけでおしまいにしているのに対して、酒見さんは、物語を固めて百メートルの塔を造り、そこに読者を登らせて、塔の高さを実感として理解させるカを持っているのでしょう。

『墨攻』を読了したあと、テレビのニュースでイラクを空爆する多国籍軍の戦闘機を眺め、ふと、この時代に墨者たちが生き残っていたなら、これを何と言うだろう――と考え込んでしまいました。

新潮社 波
1991年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク