主婦から小説家へ──第54回文藝賞受賞作『おらおらでひとりいぐも』刊行記念対談

対談・鼎談

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おらおらでひとりいぐも

『おらおらでひとりいぐも』

著者
若竹, 千佐子, 1954-
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309026374
価格
1,320円(税込)

書籍情報:openBD

主婦から小説家へ──『おらおらでひとりいぐも』刊行記念対談

[文] 河出書房新社

 理屈を杖に、イメージへ開ける

保坂 この小説の新しいところは、老いと理屈っぽさが共存しているところなんですよ。老いっていうのは理屈から離れていくことだと思われているじゃないですか。無我の境地に近づいていったり、理屈が漂白されていくというのが普通ですよね。たとえば、奥さんに先立たれた旦那というと、城山三郎と江藤淳がいるけど、いずれも残された旦那は、ただ嘆き悲しんでいるだけ(笑)。実際、旦那は女房に先立たれると長くは生きていられない。トースターでパンも焼けなければ、電子レンジも使えない。そういう人が残されると呆然としてしまって、できることがなにもなくなる。すると老いが弱いものになる。
 この作品みたいに、旦那に先立たれた悲しみを書いた小説って過去にありましたか?
若竹 まだちゃんと読んだことはないですが、津村節子さんの『紅梅』という小説があったと思います。
保坂 この作品は旦那に先立たれた奥さんを描いた小説だけど、桃子さんの中で、老いは強いものなんだよね。桃子さんはとにかく問いや意味を欲する。「新しい問いを見つけ」て、「問いがあればさらに深められる」と言う。「桃子さんはつくづく意味を探したい人なのだ」と。意味を欲して、「場合によっては意味そのものを作り上げる」。桃子さんにとっては、問いがあれば、意味を探すことで生きていけるんだよ。小説中盤のここではっきり書いているけど、桃子さんは最初からそうだよね。東北弁についてや自分について、とにかく考えている。これは、小説を進めることでもあるんだよ。小説というものは先へ進めるのがとても大変で、ストーリーのない小説は特にそう。問いや意味は、先へ進むための発見になる。
若竹 ああ、なるほど。
保坂 でも桃子さんにとっての問いや意味はあくまで進むための杖であって、桃子さん本体ではないんだよね。この小説では、「桃子さんは〜」という主語の使い方をしていて、それが呼びかけなんだか自問自答なんだかよくわからない、主人公自体を一人称と三人称の未分化なイメージとして提示している。それは人間が生きている時のいちばん構えのない状態の、意識の中のイメージなんだよね。選考会では「これは一人称なのか、三人称なのか」という話が出たんです。その時僕はなんとなく「一人称なんじゃないの」と答えたんだけど、そういうことじゃない。ご本人としてはどうなんでしょうか?
若竹 今生きていれば百歳の私の父が、広沢虎造の浪曲が好きでよく唸っていました。「石松三十石船道中」で、あの寿司食いねぇの話ですが、子供の頃はよくわからなかったんです。あれは、本当はどんな話だろうと思ってYouTubeで聞いてみたら、衝撃的でした。地の文が低い声で語られていて、その中で登場人物ごとに声音を変えて、船内の描写をする。これを小説の文体にしてみようと思いました。
保坂 広沢虎造って、浪花節の人ですよね。
若竹 そうです。この作品は桃子さんひとりの話ですが、脳内の登場人物を立体的に表すためにも方言を使いました。また、話を推進するための客観的な要素は三人称で標準語で書いて、主観的なことは一人称で方言で書く、という方法をとりました。
保坂 考えてみたら、自己イメージって幽体離脱的なもので、「俺」と言った時一人称だけど、人は必ず自己像を外からの目で見ている。だから一人称か三人称かという機械的な分け方は当てはまらない。この小説で「桃子さん」と書くことは、そこをちゃんと指摘しているんだよ。皆やっぱり一人称か三人称か決めて書く感じがある。今流行りの移人称問題とかそういうのは、全然ピントがずれているんだよね。書く人の違和感がスルーされているから、技巧的な意味での人称の問題にしかならない。そういうことじゃ全然なくて、小説で一人称や三人称を使って何かを書く時はもう、自分とは切り離されたフィクションなんだよね。僕は候補作が面白いと妻に読ませるんだけど、妻も面白がって読んでいました。妻はヴァージニア・ウルフが専門で、「これは意識の流れとも違うんだよね」と言っていたけど、たしかに違う。「意識の流れ」では一人称の私が一人しかいないけど、これは桃子さんの中で複数の声がするのが大事なんです。このいちばん自然な描き方を、よくぞ摑んだという感じがするんだよね。
 桃子さんは気持ちを一色にしていなくて、一人でボケて一人でツッコむみたいなところがあるじゃない。桃子さんは「地球四十六億年の歴史なる読み物」が好きで、調べたことを大学ノートにメモしている。そうやって勉強して、「現代が二百六十万年前から続く氷河時代のただなか」にあって、「一万年前からは比較的温暖な間氷期にある」と知る。でも間氷期といっても想像がつかなくて、「梅桃桜タンポポいちどきに咲き、寒さで硬くいからした肩の力がほどける故郷の春」くらいのイメージしかないと書く。それが次に「それはいいとして」と、ころっと変えて勉強のための大学ノートを満員電車で「これ見よがしに押し広げ」と続くんだよね。さらにその後、「老いは失うこと、寂しさに耐えること、そう思っていた桃子さんに幾ばくかの希望を与える。楽しいでねが。なんぼになっても分がるのは楽しい。内側からひそやかな声がする」と書いておいて、続いて「その声にかぶさって、んでもその先に何があんだべ」と、ここでもひっくり返すんだよね。こうやって、いつでも押したり引いたりしている。
若竹 私の中には、『ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョ由来の、というか、自己分析癖と、「皆さん、私は」と自分を面白おかしく語りたいという自己言及癖みたいなのが混在してあるようなんです。『ひょっこりひょうたん島』は、田舎の子供だった私の「文化」そのもので、ドン・ガバチョは名誉欲の塊みたいな男なんですけれど、それをあれこれ臆面もなくさらけ出し、語る。しかも「今日がダメなら明日があるさ」というあの楽天性が大好きで、ドン・ガバチョは私の中に同化されて分かち難く生きているという感じがします。自己分析する時に、問いを立てればより深まった解が見つかるというのはその経験値によるものです。頭の中でああだこうだと考えては、それこそ押したり引いたりして会話するおかしな私がいます。
保坂 桃子さんは考えることにこだわって、問いとか意味とか一見頭でっかちなことを言うけど、作者が偉かったのは、最後の、行列する女たちのシーンがあることだよ。終盤の墓参りで霊園へ続く山道の上り坂を歩きながら、だんだん足が限界になってくる。痛いけどがんばって、心の中の声に耳を傾けているところで、「大勢の桃子さんがいる」と書きますね。この時点ではまだ桃子さんの内面を描いていて、外側からみたら、桃子さんはまだひとり。それがその後、周造が死んだ頃の記憶を描写して、白昼夢で女たちの長い行列を見たと書く。ここで、外見上でも複数になるんだよね。つまり、イメージの地平に開けるんだよ。問いや意味といった理屈から入って、その理屈を杖にしながら進んでいって、イメージへたどり着く。表面上では理屈を使いながら、イメージへと開くことに軽快さや明るさがあるわけ。
若竹 そうですね。理屈は、積み重ねればできるけど、最終的には網膜に映る様々なイメージを言葉でもって表現したいという欲望はあります。ある時期、目をつむれば、見たこともない女の人の顔が次々に現れては消えて行ったり、極彩色の絵が脈絡なく動いては消えていくということがありました。いったいこれはなんだろう、とびっくりして。悲しみをきっかけに、脳内の元型が賦活したのではと……ずっと河合隼雄さんの本を読んで来たので、先生が言われたまさに同じことが、私に起こっているのではと、驚いたんです。絵心があれば絵で表現したいけれど、私は言葉でイメージに近づくしかないんです。
保坂 それと、この小説は普通ではない流れ方をしていて、たとえば娘の直美の話があります。直美は結婚して家を出ていて、「いつごろからか疎遠になった」。普通というか、ありがちな小説だとこの後には疎遠になった理由が延々と続いて鬱陶しくなるけど、桃子さんはそれをしない。つまり、内面の暗いところへと小説を深めないんだよね。さらにまた別のシーンで、病院の待合室ではす向かいに座った女が、ハンドバッグから物を出したりしまったりしているのを見て、「ふと、こんな光景にどこかで出くわしたことがあると思った」と言って、娘時代に夜行列車で出会った男の話になる。ここも普通は自分の内面に入っていくんだけど、この病院と夜行列車のふたつの出来事を結ぶのは、「眺めている自分のあり方」であって、昔から自分は「見るだけ、眺めるだけの人生なのだもの」と、自分という人間を描くのに内面の奥へ奥へと深めないから、小説全体が伸びやかで軽やかになる。普通の、ありがちな小説を書く人は、こういうところで自分の内面へ降りていかないといけないと思っているんだよね。
若竹 桃子さんは、たとえ負の面であったとしても、自分を見つけだすことそのものが楽しいのだと思います。汚い自分を見出しても、それも自分なのだと。だから、桃子さんの内面は暗くならないんだという気がします。

河出書房新社 文藝
文藝2017年冬号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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