『この世の春 上』
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『この世の春 下』
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息を呑む大仕掛けが待つ記念碑的作品
[レビュアー] 東えりか(書評家・HONZ副代表)
下野北見藩五代藩主成興は今望さまと愛称で呼ばれるほど民から愛された名君だった。急逝後、息子の重興が六代藩主となったが、御側用人頭の伊東成孝に政務の一切を任せており、伊東の専横に家臣は眉を顰めていた。
だが突然、伊東成孝はお役御免、家人ともども蟄居を申し渡された。それから間もなく重興の病が重篤につき隠居の報が入る。たびたび乱心し重責に堪えられないとのことで、七代藩主には従弟の北見尚正が就き、政変も治まったかに見えた。
伊東成孝の嫡男を守るため、乳母が頼ったのは元作事方組頭の各務数右衛門。娘の多紀とともに子どもを無事に寺へ送ると父はほどなく身罷った。残された多紀は母方の従弟である田島半十郎より重大な勤めを仰せつかる。それは乱心するという重興の、身の回りの世話をするというものだった。
重興は見目麗しい青年であった。座敷牢に端坐し元江戸家老の石野織部や医師の白田登、女中や下男などと静かに暮らす。だが時々、人が変わったかのように幼気な子どもや蓮っ葉な女、あるいは荒ぶる武士などに変貌してしまう。何が起こったのか、本人にその間の記憶はない。重興の身体はどうなってしまったのか、元の性格に戻ることはできるのか。重興の幼いころの記憶から始まり、徐々に北見家の重大な秘密が手繰り寄せられる。
宮部みゆきデビュー三〇周年記念となる本作は、江戸時代の小藩を巡るサイコサスペンス。人の心に巣食う悪魔とそれを嫌い逃れようとする真っ当な精神との闘いを描く。
人間の脆さと強さを描いてきた宮部みゆきの集大成とも言える一冊は、他作の追随を許さない面白さであった。