小さな町の力 横山貞子/コルム・トビーン『ノーラ・ウェブスター』(新潮クレスト・ブックス)

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ノーラ・ウェブスター

『ノーラ・ウェブスター』

著者
コルム・トビーン [著]/栩木 伸明 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784105901424
発売日
2017/11/30
価格
2,640円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

小さな町の力

[レビュアー] 横山貞子(英文学者)

 夫を急病で失ったのは四十代半ば。四人の子供がいる。貯金はない。こういう条件の母子家庭は、世界中のどこにもあるのだが、その渦中にある人間像が描かれることは少ない。当事者は、一日々々を生きるのに精いっぱいで、記録しているゆとりはない。

 ここに、よく観察し、そして記憶する息子がいた。自分の昔の体験を、息子に話すのを好んだ母親がいた。息子は、成人後はスペイン、南米、北米東部に住み、ときどき、アイルランドにいる母を見舞う程度だったようだ。それだけに、帰省中に聴かされる母親の話は熱を帯びたことだろう。この母は八十歳まで生きた。

 母の没後、息子は十四年かけて、小説としてこの作品を仕上げた。この家族が暮らすのはアイルランド南東部。町中がお互いを知っているような、小さな田舎町で、カトリックの信仰が浸透している。アイルランドにキリスト教が伝わったのは、イギリスよりも早かった。以来、教会と学校によってカトリックの教えを伝えてきた。それに、十七世紀半ば、清教徒クロムウェルのアイルランド侵略を、アイルランド人は決して忘れない。独立を達成した今も、イギリスとプロテスタントに対する反感は残っている。

 作者の母と重なる主人公ノーラは、夫の死後、毎日、予告なしにやってくる弔問客に疲れて、ダブリンに移ろうかと考える。ところが、子供のときから知っている女子修道院長は、「心配ないわ……町があなたを守ってくれます」と言う。

 結婚する前に十一年間働いていた、町内の会社から、再就職の声がかかる。現社長も、その夫人も、先代社長も、ノーラが若いころからの知り合いの仲だ。小さい町が守ってくれている。それは、おそらく、後になってから気づくことなのだろう。

 出勤してみると、直接の上司は、十代のころノーラがいじわるをした、まさにその女性だった。当然、お返しがはじまる。まじめで有能なノーラの像が、ここで急に活き活きとしてくる。実際に母からきいた話なのか。作者の創作か。

 ノーラは、自分の悲しみを人に訴えない生きかたを選び、人に憐れみを乞わない姿勢を通してきた。ノーラの父が亡くなったときに母のとった、町中の人に自分のほうから憐れみを求める態度が、反面教師の働きをした。末息子のコナーが、学業はよくできるのに、成績が下の級に移されたとき、ノーラはそれを不当と思う。だが、教師に泣きつくのは、彼女のやりかたではない。住所がわかる限りの教師たちに、同文の手紙を手書きで書く。息子がもとの級に戻るまで、毎朝、学校前でピケを張って、教師の登校を阻止する、という内容だ。その独りデモ、独りピケを、だれの助けも借りずに、連日、実行し、ついに目的を果たす。

 ノーラは、超人のように見える。子供から見た母は、そう見えるのだろう。ノーラが与えるこの印象は、もっと長い年月のあいだに起こったことを、夫の死後三年間に凝縮して配置してあるために、生じているかもしれない。

 亡夫は、この中高一貫男子校の教師だった。長男ドナルは父親を尊敬し、父のようになりたいと思っていた。その父を失って以来はじまった、彼の吃音は、別の寄宿制高校に転校すると、自然に治まる。父の影から解放されたのだ。この小説の作者となるのは、彼、ドナルのほうである。

 夫の生前、ノーラは自分の家庭に満ち足りていた。ところが、意外なものとの出会いが、夫の死後、待っていた。それは、音楽だ。レコード・コンサートに誘われ、黒い盤から流れ出る音楽をきいて、衝撃を受ける。夫は音楽に関心がなく、自分の仕事には静かさが必要だと思っていた人だった。ノーラは音楽に強く惹かれ、乏しい家計の中から古いプレーヤーとレコードを買う。こんなに美しいものがあった! レコードをひとりで聴く楽しみを、ノーラは持つようになる。それは、夫には決してついてこられない場所だった。

 作者が母から、こういう体験を聞いたのか、それとも創作なのか、それはわからない。だが、ここは、読んでいて心に響く、すばらしいところだ。

 作者の母は、一九二一年生まれ。この物語の背景は、一九六〇年代の終わりから七〇年代のはじめにかけて、ということになる。田舎の町が、そこに住む人を再生させる力を保っていた時代と言えるだろうか。別の文化圏に置いても通る、根の深い普遍性を持つ庶民伝になっている。

新潮社 波
2017年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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