【この本と出会った】『浮雲』二葉亭四迷著 早稲田大学名誉教授・中島国彦

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浮雲

『浮雲』

著者
二葉亭, 四迷/著
出版社
新潮社
ISBN
9784101014036

書籍情報:openBD

【この本と出会った】『浮雲』二葉亭四迷著 早稲田大学名誉教授・中島国彦

[レビュアー] 中島国彦(早稲田大学名誉教授)

 ■文学研究の原点は中3の経験

 若き日の二葉亭四迷が書いた『浮雲』は、机辺のいつも手を伸ばせる場所に置いている一冊である。中学3年生の時、社会科の授業で、近代日本の歩みを学習した。鎖国から世界へ広がっていく若々しさに満ちた「明治」という時代や、そこに活躍する人々が、まぶしかった。近代日本をめぐって何かテーマを決め、感想文を書く宿題が出た。わたくしが、最初の近代小説といわれる『浮雲』を読んでみようと思ったのは、題名だけ知っていたこの作品が、以前から気になっていたからであろう。大学で日本の近代文学を学び、それを教えることになるとはまだ想像がつかない時期のことだ。

 文庫本を買って、読み出した。注も何もない正字旧仮名の本文で、最初は苦労したが、ストーリーが展開し出すと、少し面白くなり、人物の心理が少しずつ見えてきた。宿題は苦心してまとめて提出したが、それがわたくしの近代小説をめぐって書き記した最初の文章になった。文三・お勢・昇などの登場人物は、いかにも時代を映す人間だが、中でも現実の中で一人思いを凝らし始める文三の姿が、次第に浮かび上がってきた。「浮雲」の2文字が、昔は「あぶなし」と読まれていたということを後に知ったが、その時は、明治という時代は、単純に割り切れるものではなく、また社会の中で生きていくのはひどく難しそうだ、という感想を持ったように思う。その読後感をどう文章にまとめたかは忘れてしまったが、作品の奥に潜む、時代を映す文学作品の内実を探りたいという、文学研究の原点に触れた経験になった。

 その時、親より大切なものを「真理」と言ってはばからない軽躁(けいそう)なお勢の位置についての理解が、十分あったわけではないだろう。クラスの仲間が、どのようにお互いを思っているのかなど、当時のわたくしの視野に入っていなかったように思う。ただ、作品の終わりの部分で、文三が天井の木目の模様を見て、「心の取り方によっては高低があるようにも見えるな」と考えるシーンは印象的で、自分も文三と同じように天井を見つめたりした。「おぷちかる、いるりゅうじょん」という聞きなれない言葉も、すぐさま覚えた。生きるということの中に、ものを重層的に見る、そうした醒(さ)めた想念がどこかに潜んでいるかもしれないと実感できたのは、はるか後のことである。

 大学1年の秋、恩師となる稲垣達郎先生のもとで、生誕100年を記念する「二葉亭四迷展」のお手伝いをした。二葉亭をこよなく愛しておられる先生の熱意は、近代という時代の問題を内部から映し出した文学者への熱いまなざしに支えられていることを実感した。おのずと、中学3年の時の『浮雲』との出会いが思い出された。当時、毎月刊行されていた9冊本『二葉亭四迷全集』は、わたくしの買った最初の個人全集である。

 『浮雲』を読み返すたびに、作品を鏡にして、その都度自分の精神のあり方を見つめてきた。自分の内部の緊張感が増せば、その分作品は深みを増す。生涯、この作品は自分に寄り添っているのだと、改めて思う。

   ◇

【プロフィル】中島国彦

 なかじま・くにひこ 昭和21年、東京都生まれ。早稲田大第一文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。日本近代文学館専務理事。著書に『近代文学にみる感受性』(やまなし文学賞)、『漱石の愛した絵はがき』(共編)など。

   ◇

 『浮雲』は二葉亭四迷(1864~1909年)が明治20~22年に発表した史上初の言文一致体小説。真面目で融通の利かない若い官吏の文三と、彼を取り巻く男女の葛藤を描く。

産経新聞
2017年12月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

産経新聞社

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