小林信彦×宮部みゆき 対談「ムーン・リヴァーの向こう側」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

対談・鼎談

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ムーン・リヴァーの向こう側

『ムーン・リヴァーの向こう側』

著者
小林 信彦 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101158341
発売日
1998/09/01
価格
565円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ムーン・リヴァーの向こう側

小林信彦さん『イーストサイド・ワルツ』刊行を記念して行われた、小林信彦さんと宮部みゆきさんの対談です。深川談義に花が咲き、臨海副都心計画への疑問までお二人で語り合っています。

 ***

 東京らしい場所

宮部 今回の純文学書下ろし特別作品『ムーン・リヴァーの向こう側』(九月、新潮社刊)の冒頭シーンで、ヒロインの一周忌の花輪をどうしますか、という謎の電話がかかってきますね。この前に読ませていただいた長編小説『イーストサイド・ワルツ』でも、ヒロインが死んでしまう。今回もヒロインが死ぬ結末なのかと早とちりしてしまいました。それにしても、ヒロインがどんなひどい目に会うんだろうと結末が心配で心配で。東京という土地と切り離せない生き方をしてきた男女が、それぞれ育ってきた山の手と下町の影を背負いながら、ミステリアスな恋におちてゆくという物語ですが、やっぱり恋愛小説は、二人がうまくいくのかどうかがとっても気になりますね。

小林 最初に考えた結末は、主人公とヒロインが深川で一緒に暮すところで終わるはずだったんです。ところが、書いていくうちに二人の恋愛がそんなうまくいくだろうかという気持ちがしてきたんですね。彼女の性格を考えても、どうも素直には終わらない感じですし。彼女はちょっと依怙地なところもあるんで。

宮部 主人公の男性より一回り年下の二十七歳のヒロインはとても不思議な透明感のある人ですね。フリーランスの編集記者という職業柄もあるのかもしれませんが、思ったことを率直に行動に移すタイプで強いところもあります。

小林 僕は隅田川の川っぺりの、昔で言うと両国、今の住居表示では東日本橋、旧日本橋区の生まれなんですが、隅田川を隔てた向こう側の深川佐賀町生まれの従姉妹がいるんですね。いまは大学教授の奥さんなんですけど、電話で話をしていると、昔の深川言葉でこてんぱんにやられちゃうんです。言葉が乱暴というのではなくて、非常に丁寧だけれども、何か「怖い」。迫力があるんですね。本人にもそのことを言ったら、だって私は昔、荒っぽい奉公人とやり合って育ったから、というんです。ヒロインの原型、というわけでは勿論ありませんが、深川の女性というと、たとえばそううイメージがあります。

宮部 私は生まれも育ちも、今住んでいるところも深川ですが、やっぱり「がらっち」なんだと思います。

小林 小説の取材で泊まりがけで何度も深川を歩き回ったんですが、それで感じたは、今でも街全体のコミュニティーがしかりと息づいていることですね。人が生きている気配がちゃんとあって、肌がすれ合うような、そういう匂いが残っている。

宮部 ずっと深川にいる身としては、ごみごみしているというか、どやどやしているというか、そういう土地なんですが。旧日本橋区のほうが、商業地として開けていたので、人の動きや出入りが激しかったんだと思います。こちら側の深川は、逆に言えばどこか閉鎖的なところがあるんじゃないかとも思います。

小林 その旧日本橋区のほうは、一九四五年の三月十日の空襲で壊滅します。もちろん深川、本所だって空襲を受けているわけです。しかし日本橋とは違って、戦後いろいろと変化しても、根本的なところはあまり変わらないんじゃないでしょうか。日本橋は戦後、夜間人口が激減してしまった。今東京という街を書こうとしても、東京らしい場所がどんどん無くなっているんですよ。なかでも、下町ということになると宮部さんのテリトリーの深川ぐらいしか残っていない感じになるんです。そもそも、この小説は「ドリーム・ハウス」「怪物がめざめる夜」につづく〈東京三部作〉の3として構想されたのです。途中で「イーストサイド・ワルツ」を書いて〈川の向こう側〉を見つけたので、それをさらに深めたくなったわけです。

 深川不動のジンクス

宮部 小林さんの故郷の旧日本橋区のあたりというのは、新宿や池袋なんかに較べれば、私には親近感のある地域です。足立区とか葛飾区の北部とかは遠い感じがしますしね。

小林 僕も葛飾とか北千住とかはまったく土地勘がない。

宮部 外から見ると、私は葛飾や足立区のことも詳しいだろうと思われがちなんですけれど、そんなことはないんです。

小林 宮部さんのテリトリーの江東区についても僕はまったく土地勘がない。多少本を読んだり、歩き回ったりして、あとは自分なりのイメージで作っていったのですが、宮部さんのような土地っ子が僕の小説をお読みになると、これは違う、というところもあるんじゃないですか?

宮部 私の知っている地名がぽんぽん出てくるので、嬉しいような恥ずかしいような感じでした。それに案外、自分の土地でも知らないことも多いですし。ずいぶんと温かい目で見てくださっているなと感じました。ただ一箇所ひやひやしたところがあったんです。深川不動がでてまいりますね、あそこはカップルで行くとその仲がこわれるという有名なお不動様なんですよ。

小林 へえ、そうですか。それは知らなかったな。

宮部 お不動様が非常にやきもちを焼くんだそうです(笑)。ですから、夫婦でもカップルでも行ってはいけない。ヒロインの里佳に勧められて行きますよね、主人公が。

小林 男が一人で行きます。……二人で行く風に書かないで良かった(笑)。

宮部 はらはらしました。

小林 それはやっぱり地元の人でないとわからないことですね。

宮部 大人になるにしたがって、だんだんわかってくることもありますし、ずっと住みついている人間には見えないものもあるかもしれない。街というのは奥深いものですね。山の手に住むコラムニストの主人公と、下町に住むフリーライターが出会うのも、街がキューピッドのような役割を果たします。……この小説は街が三人目の主人公という感じがします。

新潮社 波
1995年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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