不適応者でも生きやすい領域を作る――鶴見済『0円で生きる 小さくても豊かな経済の作り方』

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不適応者でも生きやすい領域を作る

[レビュアー] 鶴見済(フリーライター)

 ベトナム南部に旅行した時に、見ず知らずの女性が運営しているカフェに泊まったことがある。彼女はカウチサーフィンという無料で泊めたい人と、泊まりたい人をつなぐサイトで受け入れを表明していたのだ。カウチサーフィンは日本でこそあまり知られていないが、欧米を中心に、世界中で旅行者が利用しているサービスだ。ここにも毎日のように海外から誰かが泊まりに来るが、日本人は初めてだったそうだ。

 了承を得てカフェに閉店後に行ってみると、常連客の若者が一〇人ほど待っていてくれた。彼らとカフェスペースで輪になって、現地と日本の生活事情の違いを語り合う。ここでの英会話の集まりに参加している人が多く、英語が驚くほどうまいが、自分はしどろもどろだ。現地の歌をいくつも紹介してもらったお返しに、喜納昌吉の『花』を歌い終わる頃には汗だくだった。こんなふうに泊めてもらう人が、彼らの英会話と異文化の学びに貢献することも、お返しになっている。

 話し終えた後は、カフェの一角に客用のクッションを敷いて寝る。蚊帳も貸してくれて、吊り方も教えてくれた。朝は始業時間前に起きて、少し店の開店を手伝って外出する。

 大変かと聞かれれば、まったく大変である。疲れを取ることを優先するなら、お金を払って宿に泊まったほうがいい。しかし、やらないほうがよかったかというと、そんなことはない。こんなふうに現地の人の生活実感に触れられる機会は、通常の旅行では滅多になく、この旅行のなかでも際立った思い出になった。そもそもそういう体験がしたくて、わざわざ現地の人しかいない屋台やバスばかり利用していたのだから。

『0円で生きる』という書下ろしの本を五年ぶりに出した。カウチサーフィンに限らず、貰ったり、借りたり、手を貸しあったりと、日常的なことをお金を使わずにやる方法を多数紹介している本だ。出版意図は実に単純だ。今はお金の力が強すぎる社会になってしまっているので、贈与や共有に根差したオルタナティブな領域を広げていこうというものだ。

 お金を使って何が悪いんだ、当然じゃないかと思うかもしれないが、ちょっと考えてみてほしい。確かにカフェの空きスペースなど借りずに、お金を払って宿に泊まるほうが楽だし、今の社会はすべてにおいてそうなっている。かつては衣食住に関することなど、日常生活のほとんどを他人と持ちつ持たれつで、あるいは自分の力でやっていたが、今ではお金を払って専門の業者に、あるいは税金を払って国や自治体に任せるようになったのだ。

 もちろんそうしたほうが便利だったのだから、それは十分に理由のあることだ。けれども別の結果もある。我々の人生はそのために、お金を稼ぐことと使うこと、つまり労働と消費ばかりになってしまった。お金ですべてをまかなう社会では当然、お金を稼ぐのが苦手な人は隅に追いやられて肩身の狭い思いをし、お金を持っている大きな企業は中心で強い力を持つ。お金を使うことが悪いわけではなくても、ここまでお金一辺倒になることを皆が望んだのだろうか? こんな社会はきつくないか?

 またお金を使わずに色々なことを済ませるようになって特に感じるのは、人づきあいが増えるということだ。もちろんゴミを拾う、野菜を育てるなど、一人でやれることも色々あるが、やはり貸し借りやおすそ分けなど、人づきあいが絡んでくるものが多い。そもそもお金とはひとつには、人間関係の煩わしさから逃れるためにあったのだ。

 人間関係は確かに煩わしい。けれども今のように、学校や会社のきつい人間関係から降りてしまったら、完全に孤立してしまうのもこの日本社会なのだ。日本では戦後、学校、会社、家庭の三つだけが人々の生活の場だった期間が長かったため、そうした王道の人生コースから外れる人が増えた今も、それに代わるつながりは作りづらい。

 お金を使わずに生きることは、そんな時のつながり作りに役立つ。これは、単なるお金の節約だけの問題ではないのだ。この社会に適応したくない人間のための、もうひとつの世界を作るための試みだと思っている。

新潮社 波
2018年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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