千年読み継がれる『源氏物語』とは何か? 角田光代×池澤夏樹対談【第1回】

対談・鼎談

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千年読み継がれる『源氏物語』とは何か? 角田光代×池澤夏樹対談【第1回】

[文] 河出書房新社

受験臭を払拭して、物語を読むものにしたかった(角田光代)

角田 池澤さんは古典を系統立ててご存知だから、どの作品と比べてどのように難しいと言えるのだと思います。私は古典について知識がないので、そういうことがわからないんです。
 私は古典を原文のままでは読めません。ですから注釈書を二冊、新潮社の「新潮日本古典集成」と小学館の「新編 日本古典文学全集」を使いました。そこにある現代語訳を手引きにするので、原文が読み解けないということはないんです。私が難しかったのは、物語のどこに主軸に置いて訳すかということ。ひいては、現代語訳というのはどういうレベルのことをいうのだろうと考え始めました。
 たとえば「超クール」「格差婚」「セレブ」といった現代的な言葉を入れたほうが、『源氏物語』はわかりやすい気もするんです。光源氏は格差婚をしますし、『源氏物語』ってセレブたちの話ですしね。そういうわかりやすい現代語訳がいいのか、もうちょっと原文に忠実なトーンでいくのか。さらに、光源氏の視点で書くのか、女性たちに主軸を置いて書くのか、あるいは……。

池澤 「格差婚」や「セレブ」といった言葉を使った現代語訳も「日本文学全集」にあるんですよ。ところどころで現代語をぽんと放り込む。その言葉が際立って、全体に勢いがつく。異化作用ですね。町田康さんの『宇治拾遺物語』がいちばんいい例です。あれはもう傑作で、町田さんが朗読すると、講演会場が寄席のように笑いに包まれる。ただしかし『宇治拾遺物語』だから異化作用が効いているのであって、『源氏物語』はそうではない。だから角田さんは苦労なさったと思うんだけれども、結果としてちょうどいいところにおさまったと僕は感じています。

角田 『源氏物語』は既にいろんな方の現代語訳があって、しかも有名な訳がいくつもあります。私には逆にそれがよかったんです。「谷崎訳や与謝野(晶子)訳、瀬戸内寂聴さんや円地文子さんの訳に対して、プレッシャーはありませんか」とよく言われましたけど、『源氏物語』をちゃんと読みたいならそっちをお読みなさい、という気持ちが私にはあったんです。私はそれらを上書きしたり否定したりするわけじゃありません。もうひとつ別の『源氏物語』を書くだけです。「ほら、『源氏物語』はこんなにたくさんあるんですよ」と言えることで、かえって気が楽になりました。
 私はどういう立ち位置に決めたかというと、物語を前面に押し出すことにしました。それは私に『源氏物語』に対する思い入れがないからできたことだとも思います。私は高校時代から古文に触れては挫折してきました。いまでも古文というと受験臭がしてしまって、読み通せないものという印象がぬぐえません。ですから受験臭を払拭して、物語を読むものにしたかったんです。そのために、『源氏物語』がもっている優雅さをばっさり捨てることにしました。かつてなく格式の低い『源氏物語』を目指しました。
 捨てたものがいっぱいあります。背景となる宮中の文化や、平安時代の人びとの習慣。それから、敬語表現です。古典のおもしろさのひとつに、敬語のバリエーションによって関係性を読み解くことがあるとよく言われますけれども、私はそれも捨てました。とにかく重視したのは、いまなにが起きていて、なにがどう展開しているかということでした。

池澤 翻訳は、原文が読めない人のために書き崩した文章ではなくて、それ自体が原作を離れた別個の作品なんです。だから翻訳者が書いた数だけ作品が増えていきます。翻訳はしかたなくやるものだという考えを捨てたいと、僕は「世界文学全集」を手がけた頃から思っていました。
 可哀想なことに、イギリス人はシェークスピアを込みいった原文で読むしかないのだ。そんなふうによく言いますよね。シェークスピアの日本語訳はこれまでにも数十種類もあって、いまも松岡和子の「シェイクスピア全集」(ちくま文庫)が完成に近づいています。角田さんがおっしゃるとおり、僕らは数ある翻訳から好きなものを選んで読めるわけです。
 翻訳者たちは文体を決めるのに苦労します。いろんな文体を試して、これも違う、あれも違う、と試行錯誤をくりかえす。しかし文体の方針が決まれば、一挙に動き出す。あとは毎日の肉体労働を重ねていく。この期間が長いので『源氏物語』はとりわけ大変ですが、しかし続けていけば必ず完成する。角田さんは欲張らなかった。捨てるものと残すものを明確に判断されました。それは翻訳としてとても正しい姿勢ですね。

角田 ああ、よかった。

池澤 読み手にも角田さんの方針が伝わる翻訳です。いえ、お勉強の読み方を否定するわけではないんですよ。注釈を見ながら原文を読み進めてもいいのですが、それでは『源氏物語』はあまりに時間がかかる。小説として読むならば、せめて一晩に一帖くらいのスピードでないと乗りが悪い。長い長い『源氏物語』が、角田訳ならどんどん読めます。角田さん、いいものをつくってくださいましたね。

角田 ありがとうございます。

『源氏物語』には運命のポイントがいっぱいある(角田光代)

池澤 訳していくなかで、『源氏物語』の物語をどのように受け止められましたか。

角田 この作業に取りかかる前は偏見がありました。いくら『源氏物語』に興味がないといっても、なんとなくストーリーを知っていたし、エピソードを断片的に読んでいました。ひじょうに人間離れした人が好き放題にやるみたいな話だろうと思っていたんですよね。だけど実際にとりかかってみると、そうではなかった。
 私がいちばん興味をひかれたのは、運命です。運命というのは、ひとりの一生ということではなくて、もっと俯瞰したもの。ある人に前世があって、いまの現世があって、また後世があって、そういったものを全部ひっくるめて、人間の運命とはなにかということを『源氏物語』は描いている。前世も来世も、生霊も死霊も、夢の話も出てきますよね。それらを全て含めて『源氏物語』の現実があります。私に向かってこの小説が「ここがおもしろいんだよ」と言ってきたのは、そうした俯瞰図からとらえられる人間の運命でした。
 いま、まるで正解を述べたみたいになりましたけど、『源氏物語』はたくさんの正解をもった作品で、いろんな読み方ができるんです。だからこそ、いろんな人が様々に関わってきたのだと思います。そのなかで、私はできるだけ運命というものを前面に出せるよう、心がけて訳しました。

池澤 原作をいちばん丁寧に読むのが翻訳者ですから、たいへんに重みのある言葉です。たしかに『源氏物語』は運命の物語だと思います。
 光源氏が中心にいます。彼は美貌と欲望の主人公で、徹底的にスーパーマンとして書かれている。そこにいろいろな女性たちとの関わりが生じることで、女たちを変えるとともに、光源氏をも変えてゆく。この群像を、彼が生まれる前から亡くなる後まで、時の流れとともにゆっくりと追いかけたのが『源氏物語』です。人間というのは、個人の運命を絡み合わせながら、全体の運命を織り上げていくものである。『源氏物語』を読んでいるとよくわかります。

角田 そのことに私はびっくりしたんです。『源氏物語』が大昔にひとりの人が語った物語だとするならば、絶対に辻褄が合っていないはずだと思ったんです。これほど長い時間をかけて大勢が登場する物語ですから、エピソードごとにつなぎ合わせて読み直せば、どこかに綻びが出てくるだろうと。ところが、周到に伏線が張ってあって、それを見事に回収していきます。ノートやパソコンで相関図やプロットをつくることができない時代に、一体どうやって人物たちを整理したんだろうって、本当に不思議です。
 私がおもしろいと思ったのは、『源氏物語』において、出来事はいつ始まっているのだろうかということです。たとえば「明石」で、光源氏は明石の姫君に会います。けれどもそのずいぶん前に、男たちの間で明石一家について噂されているんです。普通なら光源氏に会ったときから明石の姫君の運命が動き始めると思うんだけれども、本当はそうじゃないんじゃないかって。噂話が出た時点から、明石の姫君の運命は動き出していたのかもしれない。噂話が出なければ、光源氏は明石に行かず、二人が会うことはなかったかもしれない。そんなふうに、私たちの運命は自分が知らないところで動き出しているのではないかという気がしたんです。そうやって読んでみると、『源氏物語』には運命のポイントがいっぱいあるんです。人びとの運命が動き出したポイントを見つけるのがたのしくなってきました。

池澤 ある帖では脇役的に名前が挙がった人が、しばらくしてから主役として登場し、また後の段では別の役柄になっている。人物の糸が何本もあって、それが見え隠れしながら、全体がひとつの織物になっている。あまりの登場人物の多さに、読むほうは「これは誰だったっけ」とメモをとって思い出したりしながら、まさに運命をたどるおもしろさがある。そうやって『源氏物語』に取り込まれていくんですよね。
 僕はこの五日間、メモをとりながら比較的丁寧に読んだんだけれども、頭がすっかり『源氏物語』になってしまって、新聞を読んでも町を歩いてもリアリティがないんです。それくらい『源氏物語』は濃密につくってあるのだと驚きました。現代の僕でさえそうなのだから、当時の読者たち、それから何十年後か何百年後かにも本好きの女たちがどれほど夢中になったのだろうと思いをはせます。文字どおり寝食を忘れて夢中になるということがよくわかりました。
 中国に「紅楼夢」という長い物語があります。清朝の南京を舞台にした、賈宝玉という若い貴公子と十二人の少女たちの物語です。これが中国では人を夢中にさせる小説の典型だと言われていまして、夢中になってしまった人を「紅癖」と呼ぶそうです。癖になって止まらず、本を買い続け、読書に時間を費やし、小説世界から抜け出せなくなる。そんな状態を「紅癖」と揶揄するんですね。『源氏物語』も同じです。ふとしたときに女たちの顔が浮かんだり、こんなとき朧月夜の尚侍は何と言うんだろうなんて思ったり。そんなふうになると危ない。

角田 顔が浮かぶというお話ですが、私には光源氏の顔が見えないんです。人間の形をとって現れない、空洞みたいなものが光源氏にはあります。けれど女性たちは薄ぼんやりと顔が見えてくる。なぜ見えてくるかというと、感情です。彼女たちの感情がじつに細やかに書き分けられているからなんです。
 自分が書く小説について考えると、キャラクターで書き分けるということを普段やっています。たとえばAさんが気の強い女性だとしたら、その対比としてシャイなBさんを出すだとか、そういうふうにキャラクターで人物を分けるんです。『源氏物語』では男性はキャラクターで設定されています。色恋沙汰にちょこちょこ顔を出して気働きができる男とか、マッチョで野暮な男とか、その人の性格や資質で説明がつくんです。
 男性がキャラクターであるのに対して、女性は光源氏にたいする感情で書き分けられています。その人自身がどういう性格かはわからないけれども、光源氏に会ったときにどういう感情でいるかで書き分けられているんです。たとえば光源氏よりも年上であることに気後れしたり、光源氏があまりにも美しいために恥ずかしかったりして、普通に接したいのにツンとしてしまう。これはいまの私たちにも共通して理解できる感情ですよね。私も綺麗な男性が苦手で、そばにいると緊張しちゃって普通に話せない。それでわざと興味のないふりをしちゃうんですよ。この感情がすごくわかり合える。感情をもって人物を書き分けていけば、きっといまの私たちと交換可能だと、訳している途中で思ったんです。このとき、私はまさに源氏ワールドに入ったのかもしれません。

河出書房新社
2018年1月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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