千年読み継がれる『源氏物語』とは何か? 角田光代×池澤夏樹対談【第2回】

対談・鼎談

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源氏物語 上

『源氏物語 上』

著者
角田 光代 [訳]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309728742
発売日
2017/09/11
価格
3,780円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

千年読み継がれる『源氏物語』とは何か? 角田光代×池澤夏樹対談【第2回】

[文] 河出書房新社

2017年9月19日、新宿・紀伊國屋ホールにて、角田光代さんと「日本文学全集」編者である池澤夏樹さんによる、『源氏物語』刊行記念トークイベントが行われました。なぜ池澤さんは角田さんを選んだのか、角田さんはなぜ新訳を引き受けたのか、お二人にとっての『源氏物語』とは何かなど、第2回は対談に加えて、ご来場された方たちとの熱のこもった質疑応答の模様もお届けします。

池澤夏樹さんと角田光代さん
池澤夏樹さんと角田光代さん

光源氏は呪術的な役割を果たしている(池澤夏樹)

池澤 『源氏物語』は近代小説としてもうまくできています。いまお話に出た、年上の気後れからツンとしている葵の上、彼女が出産を前に具合を悪くするでしょう。葵の上は生霊に憑かれて苦しんでいるのだけれど、生霊の正体はわからない。しまいに葵の上は生霊に乗っ取られて声まで変わるという、ホラー映画のような場面だけど、その声を光源氏だけが聞くんですね。光源氏だけが正体を見破るけれども、彼は黙っている。一方、周りの女たちには声が聞こえなかったのか、葵の上を心配してやきもきするばかり。
 あるいは、光源氏がはじめて夕顔に会う場面もそうです。光源氏が惟光の家を訪ねるけれども、中から鍵が開かないらしく、なかなか入れてもらえない。待たされた光源氏はふいに隣りの家に関心を向ける。するとそこが夕顔の家だというわけです。ふたりの出会いのために、作者が騒動をこしらえたわけです。まったく近代小説として細部まで見事に計算されています。

角田 あまりにもふつうに読んでしまっていましたが、そう言われてみればそうですね。あらためてびっくりします。

池澤 ただ全体を駆動させる力には、古代的なものがあると僕は思うんです。光源氏にしても頭中将にしても、なぜ男たちは女を追いかけ回すのか。単なる女好きで数を競うのではありません。彼らにとってそれは義務なんです。つまり古代の呪術的な考えが平安の時代にも残っているということです。
 僕が訳した『古事記』はまるごと呪術の世界です。天皇はマジカルな力によって国を治め、よりマジカルな力を得るために女たちを集める。そこでは天皇家の男と地方豪族の娘がセットです。というのも、天皇家は天照だから太陽の力を、地方豪族は水の力をつかさどり、二つの力を合わせなければ国を統治できないと信じられていたからです。また天皇家の場合は、国を継承するために子を絶やすわけにいかない。そこで妻をたくさん用意する。集められた彼女たちがたがいに嫉妬をしはじめ、さまざまなドラマが生じる。これが『古事記』の読みどころです。
 こういった考え方が『源氏物語』の時代にも残っていた。男たちは女性とセックスをすることで力を得て、その力によって自分たちの土地を安定させ豊穣にする。もちろん素敵な女性と仲良くなりたいという気持ちがあったのだろうし、うまくいけば楽しいに違いない。しかしそうしたエゴイズムばかりではなく、政治的な責務を負ったスケコマシとして動いていたんですよ。そう考えると、少しは光源氏にも同情できます。

角田 そうなんですか。

池澤 だって責務じゃないと大変ですよ。あんなに頻繁に女性を追いかけまわして、誰かれ構わず声をかけているでしょう。美しくない女性でも、すごく年上の女性でも、きちんと応対しますよね。私的な好き嫌いで動いているのではないということです。

角田 そうか。

池澤 『古事記』のはじめのほうに、ニニギノミコト(邇邇芸命)という男が出てきます。彼の妻としてコノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)という美女がやって来るのですが、イハナガヒメ(石長比売)という醜い姉がついてくる。ニニギノミコトはイワナガヒメを故郷に帰してしまいます。その後どうなるかというと、コノハナノサクヤビメはその名のとおり、いっときは花のように綺麗に咲くけれどもすぐに死んでしまい、家系が滅んでしまった。こちらも名前のとおり、岩のように丈夫なイワナガヒメを妻にしていたら、子がたくさん生まれ、家系が長く続いたはずだというお話なんです。ですから、美醜で選り好みしてはいけないという教えが『古事記』以来あるんですよ。

角田 ううん……。

池澤 それにしても、光源氏は大概なことをしていますよね。歌を口ずさみながら廊下を歩いている朧月夜を、無理やり部屋に引っ張りんだりして。だめでしょう、そういうことをしたら。でもそういったことを許すために、光源氏がいかに美貌の人であるかがくりかえし語られる。そして朧月夜のほうでも、つまらない男だったら逃げるところを、声を聞いて光源氏だとわかった途端に動けなくなる。そういう仕掛けもよくできているんです。

私には光源氏の顔が見えない(角田光代)

角田 いまのお話を聞いていると、池澤さんには呪術的な意味を背負わされているにせよ源氏の顔が見えるんですね。つまり光源氏が人間として見えているんですね。

池澤 そうでしょうね。呪術的な役割を果たしている位の高い貴族としての彼は見えます。

角田 おもしろいですね。私には見えないんですよね。だから私にとっては、光源氏はやっぱり人間じゃないんです。
 光源氏はひどいことをいっぱいするじゃないですか。引っ張り込んだり、顔に被せものをしたり、人違いだったり、幼子を連れてきたり、そうして女性たちを犯してばかりで……。人間がやったことだと思うとひどすぎます。なんてひどい男の話だろうと思いながら翻訳に取りかかったんです。ただ実際に訳してみると、光源氏の顔が見えない。顔が見えないから、人がやったことだという捉え方が薄れていく。ではそこで一体なにが起きているかというと、これは訳者としてよりも読み手としての感触ですが、ただ人が生きていて、運命の転換点にいやおうなく立ち会ってしまったということです。たとえば事故みたいなもの。いつも七時に家を出るのに、今日は何かの弾みで七時五分になってしまった。するといつもの電車を逃して、一本後の電車に乗った。その電車に乗ったがゆえに、運命が変わってしまった。――この“七時五分に出ざるをえなかった何か”が、読み手の私にとって光源氏なんです。だから光源氏が何をしてもひどいと思わなくなってしまって。彼の行動を読むというよりも、彼によって運命が変わったときに皆がどう対処するかを読むようになっていったんです。
 こうして『源氏物語』についていろんな方とお話ししていると、この人には光源氏が人として見えているんだな、この人には見えていないんだな、とわかるようになってきて、それもおもしろいです。池澤さんには人として、でも普通のスケコマシじゃなくて、もう少し意味をもった人になるわけですね。先ほどの「政治的な責務を負ったスケコマシ」は非常に興味深いです。

池澤 ええ。誰かを失っておろおろするとき、特に死別して悲しむ光源氏には、顔が見えます。
 ただしかし、彼は綺麗で、いい匂いがして、踊りが上手くて、絵画も楽器の腕も超一流。わがままを許すためにスーパーマンとして描かれるわけで、たしかにここまでやると顔がなくなるかもしれない。

角田 光源氏がだんだん弱っていきますね。年を取るにつれて、女もだんだん思うとおりにいかなくなってくる。そうなってくると私にも、空洞だった光源氏に輪郭が見えてきました。
 読み手がどのような光源氏を想像しても、私のように人間じゃないくらい極端な光源氏を思い描いたとしても、堪えうる小説が『源氏物語』なのだと思います。全然びくともしないどころか、読み手の想像に応えてくれるんです。「それでいいんだよ。そうやって読み進めればおもしろいでしょう」と言ってくれる。魔術的な魅力がありますね。

池澤 『源氏物語』が小説として成功しているのは、光源氏の生涯全体を見渡してプランできているところです。基本的には色恋の話だけれども、一方には政治のドラマがあって、光源氏は政治絡みで失脚してしまう。とはいえ、そのきっかけが女だというのがやっぱり光源氏らしいのだけれども。ともかく作者は光源氏に失意の日々をおくらせるため、彼を都から遠ざけ、田舎に引っ込ませます。さて、どこに光源氏を引っ込めるか。太宰府まで行ってしまうと菅原道真になって二度と帰ってこられませんが、京都から十キロほどの須磨なら無理なく移動できますね。まして「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守」(源兼昌)と詠われるほど、当時、京都の人たちにとって須磨は寂しい土地でした。そんな土地に光源氏が女を連れることもなく、しょんぼり暮らすというわけです。また須磨と明石の二段構えで移動させることで、明石にちょっとしたサプライズを仕込んだり、嵐の劇的な効果を使ったりしている。巧妙な構想力だと感心します。

角田 ええ、本当に上手いものですね。

河出書房新社
2018年1月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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