千年読み継がれる『源氏物語』とは何か? 角田光代×池澤夏樹対談【第2回】

対談・鼎談

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

源氏物語 上

『源氏物語 上』

著者
角田 光代 [訳]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309728742
発売日
2017/09/11
価格
3,850円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

千年読み継がれる『源氏物語』とは何か? 角田光代×池澤夏樹対談【第2回】

[文] 河出書房新社

【質疑応答】

――角田さんのファンとしては、角田さんの新作にしばらく接することができない恨みがありますけれども、角田訳『源氏物語』というプレゼントを喜んで受け取りたいと思いました。角田さんに質問です。『源氏物語』の登場人物は四百三十余人もいますが、インスパイアされた人物はいますか。また『源氏物語』の翻訳が終わった後、新作の構想はありますか。

角田 古典の翻訳でも小説の執筆でも、私はわりと登場人物と距離を置いて書いていて、誰のことも何とも思わないんです。だから『源氏物語』のどの人物も等距離に離れていて、特にこの人が好きということはありません。ただ中巻、下巻とやっていくうちに変わるかもしれないです。
 また、いろんな方に「『源氏物語』が終わったら小説も変わるよ」と言われているんですけど、これもまだ書いてもいないので、わからないんですよね。

――池澤さんにうかがいます。池澤さんは「日本文学全集」では『古事記』を、「世界文学全集」ではジョン・アップダイク『クーデタ』を翻訳されました。外国語からの訳と日本語の古文からの訳は、どのような違いがありますか。

池澤 難しい問題ですね。外国語からの場合は、背景となる社会がずいぶん違うから、日本語にして伝わるものと伝わらないもののことを気にします。日本の古典の場合も、社会の変化という意味では海外作品と同じだけれども、心情的にわかりやすいという点で苦労が少ないです。
 ただ、この二つを自分のなかで比較したことがないので、まだうまく言えません。本質的に同じかもしれないとも思います。

――角田さんに質問です。『源氏物語』の三十三帖までは、若紫系と玉鬘系の二系統があるという説があります。訳されるなかで、二系統の差を感じたり、ストーリーの順番と成立順が違うと思ったりしたことがありましたか。

角田 『源氏物語』にはいろんな説がありますよね。二系統説の他にも、別の人が書いた帖だとか、後で書き足された部分だとか、いろいろあります。私はそれらをいっさい無視しました。説にとらわれると、そちらに興味が向いてしまうと思ったんです。ですから私は、ひとりの作者が最初から最後まで順番どおりに書き進めた、ということを大前提として訳しています。

――池澤さんが「日本文学全集」を編むにあたって、震災という経験があり、日本人が何を考えてきたかが課題になったというお話がありました。そのうえで「日本文学全集」に明治期の作品が少ないというのは、明治という時代が日本人の本質に大きな影響をあたえていないとお考えなのでしょうか。それとも別の理由があるのでしょうか。

池澤 それほど厳密に決めたわけじゃありません。明治期の作品におもしろいものがあまりないと思ったからです。江戸期までの文化的な爛熟がいったん終わり、当時の作家たちは西洋式の新しい小説を書くのだと意気込んだ。その間には空白があります。作家たちが「お勉強」をした部分があるわけです。この期間はおもしろい作品が少ない。樋口一葉は明治期にあって江戸文芸の果てだからおもしろいし、夏目漱石も立派な仕事をした。けれども明治以降、漱石が『三四郎』を、鴎外が『青年』を書き、しだいに自然主義の私小説のほうへ流れていく。この流れが僕は好きではないんです。この流れに日本文学は長いこと災いされて、やっとこの二〇〜三〇年で解放されたという印象があります。
 もちろん例外はたくさんあります。あれが入っていない、これが入っていない、と皆さんからご意見をいただきますけれども、それはもう「すみません。僕がわがままをしました」と謝るしかありません。

――角田さんにうかがいます。「日本文学全集」の作品リストを見たとき、翻訳したい作品があったとおっしゃいました。それはどの作品ですか。

角田 小さい声で言いますとね、『雨月物語』です。

――それはどうしてですか。

角田 もともと好きな作品だったので。でも円城塔さんが翻訳されてよかったと思います。

――全然興味がなかった『源氏物語』を訳そうと決意されたのは、なぜですか。

角田 いちばんは先ほどお話ししたとおり、池澤さんが名前を挙げてくださったということです。それを別にして言いますと、私は興味の幅がひじょうに狭いんです。大抵のことはやりたくないんですよね。ただ、やれと言われることも多くて、やれと言われたことを無理して頑張ってやるなかで、自分のできることが広がってきたという実感があります。だから、これは無理だと思えば思うほど引き受けたほうがいいと、肌で知っているんです。『源氏物語』に私は役足らずかもしれないけど、やったほうがいいのだろうと感じたのでしょうね。

――角田さんの翻案の『曾根崎心中』を読んだことがあります。『曾根崎心中』の翻案と、『源氏物語』の翻訳、それぞれ作業を進めるなかで経験できたことの違いを教えてください。

角田 『曾根崎心中』は原作が短いです。本のページでいうと、十ページくらいの原文をもとに、百枚以上の小説をつくったようなものです。九十五パーセント以上が創作ですね。『源氏物語』は長い原文をそのまま訳していますから、作業が根本から違います。
 『曾根崎心中』のときは、古典の勉強をたくさんしました。遊郭がどういう構造になっているか、どういうシステムで運営されているか、そういった背景を調べて創作の材料にしました。

――『源氏物語』を原文で読むと、「葵」で六条御息所と葵の上の話がかわりばんこに出てきます。なぜこういう順番になるのかわからないと思う部分があるのですが、角田さんの翻訳で読むと流れがスムーズに感じられました。これが角田さんのおっしゃっていたストーリーを前面に出すということかな、すごいな、と思ったんです。どんな工夫をなさったのでしょうか。

角田 私がやったのは、長い文章を切り、主語を補うということだけです。説明も入れていません。それは袍や袿が衣服のどの部分だとか、家の構造がどうなっているだとかよりも、人物がそこでなにをしているかを見てほしいからです。でもだからといって、わからない言葉を消しているわけでも、見てほしいところを特に強調しているわけでもないんです。ほぼ忠実に原文に則しています。ですから、なぜ私の訳でわかりやすくなったのか、それは私にもわからないんですよね。こんな訳にしたいと思ったら、そういう訳になるのかな。そうとしか言えないです。

池澤 通常、原文から大きく変えて翻訳することはありません。いまのお話で大事なのは、切り捨てたということですね。これは不要だ、ここは諦める、と判断をくだす。
 『古事記』もわからない言葉がいっぱい出てくるんですよ。これまでの『古事記』の訳者はその説明を本文に折り込んでいった。しかしそうすると文章が間延びする。『古事記』で重要なのは速さですから、僕は説明を切り捨てて、脚注に下ろしてしまった。説明を読みたい人はページの下に視線を移してください、先を読みたい人はそのまま進んでください、とね。
 さくさく読んでほしい。翻訳はそれに尽きるでしょう。『古事記』にも『源氏物語』にも、それぞれのスピードがある。それがおざなりになってしまっては翻訳した意味がない。その意味で、僕と角田さんは似た姿勢で取り組んだんだと思います。

角田 では原文を大きく変えなくても、さくさくなあれ、さくさくなあれ、と想いを込めれば、さくさくなるんですかね。

池澤 それが捨てる勇気につながるんじゃないかな。

角田 そうか、いまわかりました。「さくさくなあれ」という想いが文章に反映できるんだ。

――敬語表現を捨てたことも大きいのではありませんか。

角田 はい。読みやすくできたと思います。ただ、敬語あっての『源氏物語』だ、それを捨てた角田訳はとんでもない、そうおっしゃる方も多いと思うんですね。こうやって言い訳をするのが私の弱いところです。

――角田さんに質問です。いま中巻を訳されていて、もともと興味がなかった『源氏物語』がおもしろくなってきたとお話しされました。中巻の魅力はどんなところですか。

角田 いちばんは、ストーリーがくっきりあるということです。
 そして、感情ということ。いまの私が十分に理解できることが書いてあるとわかってきたことです。一見すると、私にはわからないことが書いてあるんです。わからないからこちらから寄り添わないきゃいけないと当初は思ったんですけれども、実はそうではなかった。上巻のはじめの頃は、私のほうで「わからない」というフィルターをかけていたんです。そのフィルターが上巻の後半にかけて外れてきました。
 それからもう一つ、運命です。中巻は運命がぐるぐるまわるお話になっていきます。

――角田さんが、光源氏の顔が見えないとおっしゃったのが印象的でした。光源氏にたいしてどのような感情をおもちですが。好きや嫌いはありませんか。

角田 私にとって光源氏は、人間よりも大きなもの、運命というもののシンボルのように見えるんですね。運命ですから、それにたいして好きも嫌いもないですね。

――『源氏物語』は女性が書いた世界初の長編恋愛小説です。この翻訳者に選ばれたことに角田さんは大きなプライドをおもちになっていいと思うんですけれども、先ほどからの謙虚なお話しぶりに角田さんらしいなと感じております。『八日目の蝉』や『対岸の彼女』をはじめ、どんでん返しに驚かされつつ共感できる角田さんのストーリーは、まさに『源氏物語』に通じるものがあります。角田さんはご自分の作品と『源氏物語』を照らし合わせてどのように感じていますか。

角田 かたや千年も残った小説なので、それと自分の小説を比べるということはあまりしないです。

――私は角田さんの小説が『源氏物語』のように千年後も読み継がれると確信しております。

角田 おそれいります。ありがとうございます。

河出書房新社
2018年1月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク