壇蜜こそ正々堂々真の“タレント”だ
[レビュアー] 小飼弾
私はタレントが苦手だ。その言葉が指し示す人々ではなく、その言葉自体が。元になった英単語“talent”の意は「才能」。私が“talent”と言われて思い浮かべるのは女性初のフィールズ賞数学者となりながら夭逝したマリアム・ミルザハニや昨年末に永世七冠となった羽生善治なのだが、「タレント」はどうやらそうでもないらしい。「芸能人」とも似ていて異なる。音才がある芸能人はむしろ「歌手」や「アーティスト」と呼ばれることを好むし、演才がある芸能人であれば「俳優」といった具合にはっきりと才能がわかる肩書きを選ぶように思われる。いきおい「タレント」は歌も踊りも残念な非才の芸能人をまとめて放り込む入れ物ということになり、“talent”とのあまりのギャップに認知的不協和不可避なのである。
しかし壇蜜は正々とtal-entであり、堂々とタレントである。少なくとも文才は。そうであることは本誌(週刊新潮)連載の「だんだん蜜味」を追いかけてきた読者であればとっくに承知であろう。問題は本誌(週刊新潮)を通読しない人々である。告白すると実は私もその中に入っている。本誌(週刊新潮)を含め週刊誌の記事のほとんどは私の口に合わない。オムレツを食べたいのにオムライスを注文する必要はないではないか。新書というパッケージはオムレツだけを食べたい人のためにある。ライスをよけてオムレツをつまんでいた私のような偏食者も『たべたいの』のおかげで食が進む。本誌(週刊新潮)を避けている人々に勧めてみては。