『この世の春 上』
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明文堂書店石川松任店「心ある者の心を震わさずにはいられないような、心の物語」【書店員レビュー】
[レビュアー] 明文堂書店石川松任店(書店員)
その専横ぶりが不評を買っていた御用人頭が失脚し、六代藩主・北見重興が重病篤により隠居するという急な政変に見舞われる北見藩。物語は、宝永七年(一七一〇年)皐月(五月)の夜半、失脚した御用人頭の屋敷で乳母を務めていた女が各務数右衛門の住まいを訪ねてきたのを、娘の多紀が出迎えるところから始まる。上下巻合わせて800ページ近く、普段読み慣れていないジャンルである時代小説の大作にすこしだけ不安を覚えながら、読み始めたのですが、冒頭から引き込まれてしまいました。本書は時代小説の枠組みの中で、心(精神)の謎を解き明かそうとする(幻想味のある)時代ミステリの傑作です。
親しみやすい登場人物(後半から主要な登場人物の一人となる気弱な登場人物が個人的には好きでした)たちが冷酷な物語に柔らかな光を与えている。残酷だが、優しい物語だ。真相は醜悪であるにも関わらず、読後感は決して悪くない(ただ結末に、すこし苦味が加えられています。途中退場するある登場人物はもうすこし報われて欲しかったな、という気もしました。とはいえ捉え方次第では、報われている、と言えるのかも……)。心ある者の心を震わさずにはいられないような、怖くて、切なくて、愛おしい物語です。そして本書ではいくつもの親子や夫婦の物語が描かれているのが印象的です。様々な親子や夫婦の形に、「一筋縄ではいかないものだな」と家族関係について深く考えさせられるものにもなっています。