未分化なものから始める成長物語 そして自己の円環を無限に繰り返す運動

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

ワルプルギスの夜―マイリンク幻想小説集―

『ワルプルギスの夜―マイリンク幻想小説集―』

著者
グスタフ・マイリンク [著]/垂野創一郎 []
出版社
国書刊行会
ISBN
9784336062079
発売日
2017/10/20
価格
5,060円(税込)

書籍情報:openBD

未分化なものから始める成長物語 そして自己の円環を無限に繰り返す運動

[レビュアー] 湯山光俊(文筆家・哲学)

本書は古典的幻想文学の傑作『ゴーレム』の作者グスタフ・マイリンクの本邦初訳著作集である。訳者の計らいによって種村季弘やボルヘスの「バベルの図書館叢書」として恣意的に取り上げ訳されて来た既出のマイリンク作品をあえて本書でははずし、未だ紹介されなかった二つの長編、八つの短編、五つのエッセイによって編まれている。あたかもマイリンクの肖像のピースを立体的にはめていくように短編やエッセイは数奇な生涯の折々に光りをあてながら、マイリンクの輪郭を浮かび上がらせるために選ばれ工夫されている。

宮廷女優の私生児としてホテルの一室で生まれたマイリンクはミュンヘン劇場、ハンブルグ、プラハへと流れつく。やがて大政治家の父から受け継いだ莫大な遺産で銀行を設立し、ボート競技の優勝者としても名を馳せる。この性急な人生の爛熟に突如彼はピストル自殺を図る。だが引き金は引かれなかった。こうした経緯を知るのが本書所収の『船頭』である。この日から彼は霊的な存在や見えない力を追い求め、神智学協会に傾倒しロッジの設立者になったり、ヨガに傾倒したりもする。その間も創作は続けられており、彼の文学がヨガの効用から得られていることが本書の『私の最も不思議な幻視』で垣間見れる。ついに経営していた銀行を破綻させ、詐欺師として収監されプラハを追われるが、彼の作家としての名声はいよいよそこから始まるのである。

まさに彼の人生そのものが縦横無尽に形を変えていく「ゴーレム」のようであり、それはタルムードで記された「未分化・未発達」なもののようでもある。そしてまた柔らかで不定形な集積帯の中に宿るものは伝説の「ゴーレム」がそうだったようにマイリンクの内なるところで無限と接続しているのである。もちろん最初の長編小説『ゴーレム』には土塊の巨人は出てこない。そこには「未分化」な「ぼく」がいて彼は肝心な記憶を消している。このゴーレムを抽象化した柔らかな分身を様々に展開していくのがマイリンクの小説世界である。

こう言って良ければ、本書で紹介される二つの長編小説は共に『ゴーレム』の変奏あるとさえ言ってよいかもしれない。『ワルプルギスの夜』に登場する夢遊病者ズルチャドロは「皮膚と肉でできた仮面(60頁)」という不定形なものをもち誰にでも変身してしまう。『白いドミニコ僧」ではメデューサの首との戦いの果てにクリストファー・タウベンシュラークは不定形な仙人となり「かたちを持たぬ力が人と化すため被った仮面(213頁)」によって作者の語りの場を奪い、勝手に喋り始めるのである。

はじめに『ワルプルギスの夜』(1917年)を見てみよう。『ゴーレム』『緑の顔』に続く3冊目の長編小説である。喜劇役者であり夢遊病者でもあるズルチャドロは、眠りながら「ゴーレム」のごとく変幻自在にその身体と顔を変えて、プラハの老貴族や皇帝侍医を驚愕させる人物に変貌する。それは同時に人々の内側の秘密を引き釣りだすことになる契機なのだ。ズルチャドロはチェコ語で鏡の意味であり、彼に写された者は皆各々の終焉に向かって自ら生み出した幻影から肩を押されるのである。「〈わたし〉は人々のあいだを流れます」(115頁)。

そしてズルチャドロは老貴族を震え上がらせるばかりでなく、第一次世界大戦下のプラハの世相を映す生きた鏡となる。その社会が求める過去の英霊を眠るままに召喚する。ズルチャドロはたちまちに15世紀の民族蜂起の英雄ヤン・ジシュカへ変貌を遂げ、演説を繰り広げ労働者を扇動して、貴族たち、その先のオーストリア・ハンガリー二重帝国を崩壊させるのである。

次の『白いドミニコ僧』(1921年)は実質的に最後の完成作品と言われている。「ゴーレム」という未分化な外部はとうとう溶け去ることを目的とする。マイリンクの中で東洋思想と錬金術や神秘主義的な秘儀がぬきさしならぬ様子で結びつき、尸解と剣解という『剣経』及び『金丹仙経』の奥義の完成までを描いていく。尸解は肉体が溶け去り消えることであり、剣解は剣に変容することである。

この小説における語りの構造は重層的に構成されている。主人公を導くはずの父はその背後に父を導くドミニコ僧を持ち、またこのドミニコ僧は主人公自身の中に生まれるドッペルゲンガーであると言うのである。父だけではない。町の人々、親方、司祭という主人公に示唆を与える全ての人物の後ろに白いドミニコ僧がいて、ことごとく全員がこの僧を通じて自分自身に反転させられているのだ。言うなれば永続的自己の対話によって内的な永遠の回路の純化を引き上げていくシステムなのである。

これはマイリンクが生涯を通じて繰り返し創作してきた内部に永遠性を宿すと言うこととおなじであると言ってよい。すなわち教えるものは教えられるものであり教えられるものはまた教えるものになると言う循環性の永遠をなす。導き手である養父はこう語る「人の口から人の耳に入り、そして脳が腐ると同時に忘れられる。お前が学べるただ一つの会話は―己との会話だ」(243頁)。

円環を成すカスタネダのドンファンの教え、あるいはツァラトゥストラの永劫回帰にも照応出来るかもしれない。しかしそれらと袖を分かつものは運動を包む未分化な外皮だ。やがて外皮は無限運動によって目に見えぬものとなり、永続的で十全な完成を内側に向かって無限に繰り返すのである。マイリンクの仕事は人生の神秘と不可分に、絶えず未分化なものから始める成長物語でありながら、自己の円環を無限に繰り返す運動なのだといってよい。今回初訳された全てのマイリンク作品がそうした独自の構造を持っているのである。

週刊読書人
2017年12月1日号(第3217号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読書人

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク