断念の感覚の漂着点『人の昏れ方』

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人の昏れ方

『人の昏れ方』

著者
中原, 清一郎, 1953-2021
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309026237
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

断念の感覚の漂着点『人の昏れ方』

[レビュアー] 岡和田晃

 私はもう歌うことができない。
 外岡秀俊が初めて江湖に問うた著作、『北帰行』(一九七六)の一節である。この断念の感覚を基調としながら、石川啄木の作品と生涯に仮託し、“中卒は金の卵”と嘯かれた集団就職や、夕張を思わせる炭鉱街の記憶が綴られた。これを、「歴史に大書されることのない無名の人々への愛着」(ジョン・W・ダワー『忘却のしかた、記憶のしかた』、訳者あとがき)なる言葉と並べてみれば、刻みつけられた諦めの感覚は─他者の仕事を読み込むことで生じた愛惜と、垣間見てしまう昏さに対しての─鋭敏すぎるほどの感性に由来するものだとわかる。
 覆面作家・中原清一郎として発表した小説第二作、『未だ王化に染はず』(一九八六)では、読み込むテクストが歴史そのものにまで拡大される。迫害された「蝦夷」のルーツを実存主義的な個のあり方へと重ね合わせることで、昏さの感覚が輪郭のはっきりした筆致で刻まれていた。考古学ミステリの形式を借りながら、人々を圧殺する「征服者の正史」と虚妄に満ちた学知が、内側から粉々に破砕されていく。
 同書の主要参考文献『北方の古代文化』(一九七四)には権威的な教授陣に交じり、一人「雑業」との肩書で参加する者がいた。伝説のタブロイド紙「アヌタリアイヌ」を編集した論客・佐々木昌雄である。小説内で失踪する謎めいた主要人物には、あるとき突然に筆を断った佐々木昌雄の面影が二重写しになって見える。
『人の昏れ方』に収められた四つの中篇のうち、最も古い「生命の一閃」は、『未だ王化に染はず』と同年の初出で、その昏さを凝集させる形で引き継いでいる。故・高野斗志美は、文芸時評で外岡を、『僕って何』(一九七七)の三田誠広らと並ぶ「青の世代」に位置づけた。「生命の一閃」は、働き盛りであるはずの新聞社のカメラマンの視点を介し、家庭と社会の相剋を描くという意味で、私小説的な書法が可視化させる範囲を拡張させた「青の世代」の書法を再演するものと読める。
 ゆえに「生命の一閃」の前史たる「悲歌」では、戦争そのものが語られるのだ……それも、死者の断念を通過することで。作家と同年生まれの語り手の父が、覚悟のうえで首を吊り“引き伸ばされた生”を終える場面から幕が上がる。父は夕張を思わせる街で代用教員をやっていたが、満蒙開拓団からの「引き揚げ」で足を痛めた母親を生きながら置き去りにし、妻や子どもたちを自分の手で殺さざるをえなかった過去があり、「生涯癒えない傷を負」っていた。語り手は、この父の鏡像なのである。
 対して、三作目「消えたダークマン」では、現代の戦争状況が描かれる。コソボ紛争の矛盾に満ちた内実が、カメラマンという記録者の観点から掘り下げられるが、「百行のルポ」に勝るはずの「写真の力」の限界が、報道現場の論理で示される。締めくくりの「邂逅」では、人間の死、そのものを直視できるかが問い直される。「内部の人間」(秋山駿)が社会のダイナミズム、その究極形へどう向き合うか。二〇一七年に書かれたこれら三作は、その回答を示している。つまり、『北帰行』が投げかけた、「歌のわかれ」(中野重治)の行き着いた先である。

河出書房新社 文藝
2018年春号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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