『バンコクナイツ 潜行一千里』
- 著者
- 空族(富田克也・相澤虎之助) [著]
- 出版社
- 河出書房新社
- ジャンル
- 文学/日本文学、評論、随筆、その他
- ISBN
- 9784309026312
- 発売日
- 2017/11/30
- 価格
- 1,760円(税込)
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直結的映画の冒険『バンコクナイツ 潜行一千里』
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
映画好きのあいだで「空族(くぞく)」の名が、新たな戦慄を呼びさます呪文であるかのように囁かれ出して久しい。そして『サウダーヂ』が評判を呼んで以後、それは現在最も刺激的な映像制作集団として広く認知されるに至った。本書はその集団的な活動が大作『バンコクナイツ』制作へ向けていかに展開されていったのかをつぶさに記すドキュメントである。そこに立ち現れる、しゃにむに突き進む一個のムーヴメントとしての活動のさまには、冷え冷えとした今の時代において信じがたいような熱量が宿っている。
そもそも「族」を名乗るところからして、シネアストの個人的想念の表白といった作家主義からはるか遠く離れた創造が目指されていることは明らかだが、本書によって読者はそれが映画制作でさえなく、コードネームで呼ばれる「作戦」だったことを知るだろう。富田克也と相澤虎之助の率いる一団にとって、映画はれっきとした戦闘行動なのである。一つの原点は相澤が二十代で知ったタイの山岳少数民族、日本人そっくりの顔立ちをしたモン族の人々の「阿片と観光客とドル紙幣」に蚕食される状況にあった。グローバリズム的観光の楽園の実相は「もしかしたら〝歴史はそれを許さない”のかもしれない……」という直感を相澤に与えた。その相澤に富田が合流して、東南アジアの現実のただなかで生きる人々との連携と、歴史の暗部をめぐる思考が10年の歳月をかけて深められていく。
ただし、直感的な問いかけの鋭敏さを除けば、彼らには確とした知識があるわけでも、立派な理想やイデオロギーがあるわけでもない。戦闘の内実さえ定かではなく、映画を作るといってもタイのお姐さんたちには「スケベのやつか?」と鼻で笑われるし、ラオスまで出かけたものの下痢に悩まされて退散といったへなちょこぶりも示す。だがそうやって捨て身の「潜行」を繰り返し、ほとんど場当たり的にネットワーク構築を図るやり方こそが、彼らの冒険に豊かさをもたらしたのだ。懸命にタイ語を学び、現地の人々の愛する音楽のグルーヴに身をゆだね、「敵でないことを証明」する愚直な姿勢によって『バンコクナイツ』という異形の作品の可能性が拓かれていく。
その可能性の核心を示す言葉として、「チョッケツ」が心に残る。オートバイのスターターの配線を短絡させてエンジンを起動させるという意味の「ヤンキーの隠語」を、彼らは「人々がある瞬間においては敵対関係にあろうとも即座に繫がるあり方」の表現として用いる。彼らにとっての映画とはいかなるメディアであるかを、この「チョッケツ」ほど鮮やかに定義づける語もないだろう。タイ社会の表と裏を、東南アジアと日本を、現代と戦争の世界史を、そして男と女、人と人を直結させる。そんな未曾有の試みである『バンコクナイツ』とは、さてどんな映画なのか。見てみたい、見直したいという欲望に身悶えさせられること必至だ。