『漱石を知っていますか』
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漱石はどこが面白いのか?
すべては「運慶の仁王」に通ず
阿刀田 それと今回読み直して気が付いたんですが、漱石の小説はほとんどが男女の話なんですね。山口瞳さんがよく「小説とは男と女のことを書くものです」とおっしゃっていたものですが、漱石の場合、男と女の緊迫した場面を書くときは、もう全部うまいですね。
たとえば藤原正彦青年が生涯で最もつまらなかったという『行人』などは、弟が兄に頼まれて兄嫁と二人きりで和歌山の温泉地に行くことになってしまう。日帰りのつもりだったのに天候悪化で泊まる羽目になる。嵐が来る。電気が消える。電気が点く。と、いつの間にか兄嫁が化粧をしていて綺麗になっている……こんな場面が実に巧みです。
藤原 『行人』って今にも何か起きそうで、結局何も起きないんですよね。
阿刀田 起きない。渡辺淳一さんの小説だったら、あの弟がもっと違う動きをすると思うんだけれども(笑)。
藤原 ジェイン・オースティンの『自負と偏見』にちょっと似ている感じがしました。人殺しもラブ・アフェアもない長大な物語なのに最後まで引っ張られる。
阿刀田 漱石の文章力がそれを可能にしています。漱石自身にはそれほど男女のことがあったとは思えないけれど(笑)、結果としては非常にうまく書いているのが興味深い。
藤原 私の考えでは、漱石は男女の仲を描いているように見せかけて、実は近代人の孤独や近代への抵抗を書いているんじゃないかと思うんですね。漱石自身、文明開化そして西洋文化に流されつつある日本に対する懐疑心や抵抗心がありました。そして明治時代の文明開化以降もロシア革命後のマルクス主義、ヒトラーの軍国主義、GHQの平和主義、さらに現代のグローバリズムまで、日本人はそれまでの「型」を忘れて無批判なままに流されてきた。
漱石が今も読まれるのはいつの時代も変わらない、ここにいる皆さんも持っているだろう、時代の大きな流れに対する孤独や葛藤をうまく表現したからで、そこに彼の一番の価値があるんじゃないかなと思います。きっと百年後、五百年後も読まれるでしょう。
阿刀田 その見方には賛成です。上っ調子の西洋化に対する漱石の批判は鋭い。それが一番端的に表れているのが「夢十夜」の第六夜でしょう。運慶が護国寺の門前で仁王を刻んでいる。「木に埋まっている仁王を掘り出しているだけのことだ」と聞いた漱石も真似して刻んでみるけれども明治の木に仁王は埋まっていないことを悟る、という有名な話。
藤原 ああ、私が「夢十夜」の中で一番好きなのがその話です。なぜかというと、ノーベル化学賞を取った福井謙一先生と私の仲人をしてくれたフィールズ賞の小平邦彦先生、偉大な二人があれが一番好きだって言っているんですよ。木を彫ったら仁王が出てきた。仁王は人間が作ったものではない。すでに埋まっているのを掘り出しただけだ。お二人はそれがまさに数学や化学における発見と同じだと言うんですね。
たとえば三角形の内角の和が180度だというのは数学者が作ったものじゃない。宇宙の中に最初からあるものだ。ピタゴラスの定理も宇宙にあったものを誰かが掘り出しただけだ。数学者はみんなそういうふうに思っているんです。
阿刀田 なるほど……いま思い当たったのですが、小説も同じかもしれない。私も八百篇を超える短編小説を書いてくる中で、誰かが宇宙にちりばめた小説のモチーフを自分がたまたま見つけただけなのではないかと思うことがあります。この感覚はすべてのクリエイションに当てはまることでしょうね。
英国の数学者が読んだ漱石
藤原 漱石といえば、私がイギリスのケンブリッジ大学に招かれた時にこんなことがありました。教授たちがくつろぐティールームにいるとフィールズ賞数学者のジョン・トンプソン教授が私のところにツカツカと来て「日本から来たのか」と訊く。そうだと答えるといきなり「漱石の『こころ』の先生の自殺と三島の自殺とは関係があるのか」と聞いてくるんですね。
阿刀田 そんな質問をいきなり初対面の相手にするんですか。
藤原 イギリスのエリートはそうやって相手の教養度を試すのです。何も答えられないと、この人は教養のないつまらない人だと判断され、相手にされなくなる。私も今ならいろいろ語れると思いますが、なんと答えたか覚えていませんから多分いい加減なことを言ったんでしょう。まさか数学の世界的権威に日本文学の質問をされるとは思わず、面食らいました。
阿刀田 いつか藤原さんに教わった話だと、イギリスでは住む地域、話している英語でこいつは階級が違うということがたちどころにわかってしまうとか。
藤原 五秒話せば出身地までわかってしまうイヤーな国です(笑)。だから『チャタレイ夫人の恋人』のD・H・ロレンスは経済学者のケインズなどにケンブリッジのディナーに招かれたけれど貴族的な英語をしゃべる教授連中を前に恥ずかしさで一言も話せず、「あんな不愉快な夜は生涯を通して他になかった」と書いている。彼は訛りの強いヨークシャーの炭坑夫の息子で、私などでは皆目理解できない英語なんです。
阿刀田 漱石はそのイギリスに勉強しに行って不愉快な思いをし、帰国してからもなおその不愉快が続いたという体験があります。イギリス留学が漱石に与えた影響についてどう思われますか?
藤原 漱石の留学体験はやはり劇的なものだったと思います。まずイギリスに到着した1900年には、新渡戸稲造が「武士道」を英語で出版して世界的ベストセラーとなっており、また同年、義和団事件で会津出身の柴五郎が陣頭指揮して北京にある八か国の公使館を守り、日本人の勇猛さ、礼儀正しさを世界に知らしめた。東洋のサルぐらいに思われていた日本人の株が急上昇しました。翌1901年には六十四年も在位したビクトリア女王が亡くなり漱石も葬列を見ました。翌1902年、日英同盟締結。栄光ある孤立を守っていたイギリスが初めて、しかも東洋の国と結んだ。
そんな時に滞在していたので、ひどく軽蔑されたわけではないでしょうが、しかし東洋の文明の遅れた国から来たというコンプレックスを漱石は深く深く感じたでしょうね。それが第一のショック。
第二のショックは、産業革命が完了したロンドンで近代の悲惨な結末を目の当たりにしたことです。当時のロンドンの大気汚染は今の北京よりひどかったと言われている。そんな喧噪の中に貧民が食料を求め長い列をなす、資本主義の醜悪な光景をさんざん見た。文明開化の最盛期に文明開化の先にあるものを見てしまった男の孤独と絶望があったでしょう。
阿刀田 経済的な苦しさもあり、また英語もあまり通じなかったらしいですね。
藤原 漱石は英文読解に関しては超一流でものすごい量の書物を読みこんでいます。ただ、読む力と話す力は必ずしも一致しない。ケンブリッジに来ていた東大英文科の教授はチョーサーという十四世紀の詩人の研究をしていて、イギリス人も読めない超難解なチョーサーをスラスラ読めるんです。ところがその教授は英語はまるで話せませんでした(笑)。
阿刀田 読んで分かるというのも一つの見識だとは思います。このごろの学校教育は読んで分からなくてもしゃべれればいいみたいに言っているけれど。
藤原 ちなみに漱石の作品には「猫」の苦沙弥先生をはじめ、高等遊民ばかりが出てきますが、あれはイギリスの価値観で、イギリス人の最大の夢は高等遊民になることなんです。親から莫大な財産を相続し、あくせく働かずに勉強したり、文化的活動をしたり、はたまた芸術を愛し、庭いじりや慈善活動に精を出す。これが究極の夢なんですね。漱石の家庭教師のクレイグ先生もどこにも所属せず、勉強しながら時々辞書の編纂をしたりの高等遊民でした。
フランス留学で日本文学は変わったか
阿刀田 もし漱石がイギリスではなくフランスに留学に行っていたらどうなっただろうと考えることがあります。十九世紀から二十世紀に入るころのフランスはデュマもいる、バルザックもいる、ユーゴー、スタンダール、フロベール、ゾラ、モーパッサン。その輝かしさは控え目に言ってもイギリスとは比べ物にならない。
藤原 たしかに十九世紀フランスは小説という面においてはすばらしい。けれども漱石には思想家としての顔もあります。イギリスでノイローゼになるほど近代の悲劇を直視し、文明の発達が人間に幸せをもたらさないということをはっきり見てとった。無邪気に西欧の文明や文化に染まっていく日本人の中で例外的でした。思想家・漱石にとってまたとない経験だったと思いますね。
阿刀田 人間のエゴイズムの問題、社会の見方、資本主義への透徹した眼差し。そうした視点を得るにはイギリスは最良の国だったでしょう。
藤原 加えてフランスはヨーロッパ一の人種差別国ですから胃の悪い漱石にはお薦めしません。パリではGACKTもケンカしたらしいですが(笑)、私もケンカに次ぐケンカです。
阿刀田 悩ましいところですね。小説は西洋が生み出したもので、その技法は当時フランスが一番進んでいた。それを具体的なお手本から学べば漱石ならどんな小説を完成させたか……。
日本語で小説を書くにはどうすればいいのかという大問題に漱石は一人で立ち向かいました。文体を変え、構成を工夫し、トライ&エラーを繰り返しながら、標準語で小説を書く素晴しいお手本を示した。これこそ漱石の真のすごさだったと思います。
小説の技法自体はヘタだった。けれども漱石が命をすり減らしてさまざまな挑戦をしてくれなかったら、日本の小説は何十年も遅れていたでしょう。そのことを若い人たちにはどうか知っておいてほしいですね。