幕末史に欠かせない重要人物 その「情」を忘れぬ生涯を描く

レビュー

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

英龍伝

『英龍伝』

著者
佐々木譲 [著]
出版社
毎日新聞出版
ISBN
9784620108339
発売日
2018/01/12
価格
1,944円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

幕末史に欠かせない重要人物 その「情」を忘れぬ生涯を描く

[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)

 江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)―伊豆は韮山の代官で、早くから黒船来航を予見し、海防強化を訴えた、日本の開国を考える上では、決して欠かすことのできない歴史のピースの一つともいえる人物である。

 また、代官としては、どこまでも質素倹約。屋敷のどの畳もほうぼうに破れが生じ、藁屑さえのぞいており、客間以外の障子はすべて反故紙で切り貼りをし、自らもつぎはぎだらけの袴をつけ、何よりも領民のことを第一に考えた。

 英龍といえば、渡辺崋山や高島秋帆(しゅうはん)に師事。西洋事情や洋式砲術を学び、溶鉱炉を築いて洋式砲を製造し、品川の台場築造を指揮したことで知られている。これまでに幾度も歴史小説の題材として取り上げられている。

 本書でも、宿敵ともいえる蘭学嫌いの鳥居耀蔵(ようぞう)との確執や、英龍の相談役となる剣客・斎藤弥九郎の活躍などが興趣満点に描かれている。

 それだけでも本書は第一級の歴史小説といっていい。だが私は、作者が、英龍の生涯を貫く〈情〉の回路ともいうべきものをきっちり描いていることが嬉しくてならないのである。

 一つは、父・英毅(ひでたけ)の代に貧しさが頂点にまで達し、家臣が腹を切ってまで金策をしたことを英龍が生涯忘れなかったこと。

 いま一つは、母・久子が死の床で述べた「忍びなさい。ひとの上に立つ者なればこそ、忍ばねばなりませぬ。誰もがお前のように書を与えられ、先生に恵まれてきたわけではありませぬ。誰も自分をわかってくれない、と思えるときは、先を急がず、忍ぶのです」という教え。

 私はこの二つが根底にあるからこそ本書は傑作に成り得たと思うのだ。

 またこの一巻は、『くろふね』『武揚伝』に連なる作者の幕末三部作の完結篇であるという。この二作との連携も本書を豊かなものにしているし、未読の方には、ぜひこちらもお読みいただきたいと思う。

新潮社 週刊新潮
2018年3月29日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加