阿川佐和子×内藤啓子×矢代朝子 座談会〈前篇〉/文士の子ども被害者の会 Season2

対談・鼎談

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【座談会】阿川佐和子×内藤啓子×矢代朝子――文士の子ども被害者の会 Season2〈前篇〉

あの父の娘に生まれた(少しの)ヨロコビと(多大な)メイワク。
涙なくしては読めない大好評シリーズ、第二弾!

 ***

阿川 私は作家阿川弘之の娘でございます。父は二〇一五年に九十四歳で亡くなりました。没後あらためて振り返りますと、自分を含めて文士の娘や息子たちはいかにヒドイ目に遭ってきたことかとつくづく思い至りまして、これは歴史に残さないといけない(会場笑)、そう考えて、「文士の子ども被害者の会」というシリーズ座談会をしようと思い立ちました(会場笑)。今日は二回目です。まず、向かって一番左に座ってらっしゃるのが――。

矢代 劇作家矢代静一の長女で矢代朝子と申します。父が亡くなったのは一九九八年一月十一日でしたから、もう二十年たちました。

阿川 そして真ん中にいらっしゃるのは、このたび新潮社から『枕詞はサッちゃん――照れやな詩人、父・阪田寛夫の人生』という本を出された、詩人で作家の阪田寛夫さんのご長女の阪田、じゃないや、お嫁に行って内藤啓子さんになられています。私の幼馴染でもあります。

内藤 他のお二人と違って、人前で喋ったりすることに慣れていませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

写真①
写真①

阿川 まずは、それぞれどういう顔の父親だったか見ていただきましょうか(写真①)。これは父と母、それに大学二年生ぐらいの私です。一応、家族構成を申しますと、母と父の間に子どもは四人おりまして、まず昭和二十六年に尚之という長男が生まれ、二年後に私、私から八歳離れて知之という弟が生まれて、それで十分だろうと思っていたら、私が大学一年の時にもう一匹、淳之って弟が生まれました。実は私の子どもなのを隠して父の子にしたんじゃないかという噂がありましたが、ウソですから。では、はい、次は啓ちゃん。

写真②
写真②

内藤 これ(写真②)、『枕詞はサッちゃん』にも書きましたが、中野区鷺宮の公団住宅に住んでいた時のわが家の庭ですね。当時としては小洒落た、全部で二十軒あるメゾネット式の団地で、そこに阿川家もお住まいでした。

阿川 そう、まあまあ洒落た団地でしたね。小さい庭があって、芝生があって、お風呂もついてて。同じ敷地内で一番外側の、通りに面したところに阪田家が住んでいらして、うちが一番奥まった場所にありました。そんなご近所でしたから、啓ちゃんとはちっちゃい頃から仲が良かったんです。これは左が啓子ちゃんで――。

内藤 右が妹、なつめ。のちに宝塚歌劇団に入って、芸名大浦みずきとなります。

阿川 なっちゅん、と私たちは呼んでいました。宝塚ではもうバリバリの男役で、めちゃめちゃ踊りがうまくて、「宝塚のフレッド・アステア」とまでいわれた大浦みずきさんですけど、この頃はひたすら泣いていましたね。

内藤 この頃は泣き虫でしたね。

阿川 あら、これはまた素敵なお写真(写真③)。

写真③
写真③

内藤 これは私が結婚する直前に撮った親子四人の記念写真です。ちょうどなつめも宝塚の花組で二番目のスターに異動する時で、その記念もあって撮りました。

阿川 次は矢代静一さんです(写真④)。右は阪田さんですね。

写真④
写真④

矢代 やっぱりタバコ吸ってますねえ。父はすごいヘビースモーカーでした。阿川先生は?

阿川 ある時期まではヘビースモーカーでしたね。

矢代 私の子どもの頃の仕事は、父の書斎のいっぱいの灰皿とダメになった原稿でいっぱいのゴミ箱を取り替えに行くことでした。タバコの吸い殻で灰皿が山になってて、机が妙にこげ茶っぽいなあと思って指でなぞるとヤニがついた(会場笑)。それくらい吸っていましたね。でも、当時の作家の方はみなさん、そうでしたよね。北(杜夫)先生も前髪がヤニで茶色くなっちゃってて。

阿川 昔の男の人で白髪の方は、前髪がヤニのせいでよく色がついていましたね。阪田さんは?

内藤 全然吸いませんでした。代わりに妹がヘビースモーカーになっちゃった。

矢代 これ(写真⑤)は遠藤周作先生と父ですね。キリスト教作家同士で、遠藤先生は父にとっては兄のような存在でした。

写真⑤
写真⑤

阿川 矢代静一さんは、『北斎漫画』『写楽考』などで知られる劇作家ですが、もともとは役者志望でいらしたんですよね?

矢代 父の場合、役者志望というより「戦争で、どうせ兵隊にとられちゃうんだったら自分が好きなことをしてから死ぬなら死のう」って発想だったんじゃないですかね。

阿川 何年生まれでいらっしゃる?

矢代 父は昭和二年、銀座の商人の家に生まれました。

阿川 靴の「ヨシノヤ」ですよね。

矢代 ええ、つまり銀座通りに面した店舗の上の家で生まれているんです。当時そういう表通りのお店には、歌舞伎座、演舞場、日劇、宝塚劇場とか、いろんな劇場が「ポスターを貼ってほしい」って持ってきたらしいんですね。そのお礼に、招待券がいつも二枚ついていたそうなんです。でも、親は店があるから、芝居を見るヒマがないくらい忙しい。となると、子どもに回ってきて、矢代静一少年はお手伝いさんとか小僧さんとかと一緒に劇場へ通い始めたんです。

阿川 贅沢な環境!

矢代 父がエッセイに書いてたエピソードですが、昔、ヨシノヤは日劇や松竹、宝塚のも、舞台靴やバレエシューズなんかを全部作ってたんですね。松竹少女歌劇で当時大人気の水の江瀧子さんが『真夏の夜の夢』をやった時、主人公で出ていらした。そのターキーさんが履くブーツを、職人さんが作っていたんです。その時は大口発注で猫の手も借りたいくらいで、父も色を塗るのを手伝ったらしい。

阿川 すごいぞ。

矢代 自分も塗るのを手伝った銀のブーツがあって、小学生の父が「これはどんな人が履くんだろう?」って少年心に胸ときめかせて、歌舞伎座に女中さんと観に行ったら、きらびやかな照明に照らされ「ぼくの靴をターキーが履いてた!」。父が芝居の世界に進んだのは、そんな〈夢の世界〉が身近にあった原体験が大きかったと思います。

阿川 お父さま、ごきょうだいは?

矢代 弟と妹がいます。長男でしたからお世継ぎ(会場笑)だったんですけれども……。

阿川 では、ヨシノヤ会長とかになるところを……。

矢代 それは無理。父はお金の計算、無理だから(会場笑)。それで、子どもの頃から劇場へ通い詰めていて、どこか芝居の世界に憧れていたんですね。そこへだんだん戦争が近づいてきた。

阿川 昭和二年生まれということは――。

矢代 俳優座の研究生になったんですよ。旧制高校の頃。仮病をつかって学校を休学して、研究生と言っても、父に言わせると、若い男はみんなもう戦争に取られていたから、大道具を担ぐスタッフとか、若い役をやる俳優とか、何でもやらされる人員だったそうです。さっきも言いましたように、父は俳優になりたいとかいうレベルではなく、とりあえず兵隊に取られて死ぬんだったら、その前に自分の好きなことをやろうと思って俳優座の門を叩いたわけです。千田是也先生とか青山杉作先生とか、錚々たる大御所の先生方の書生みたいなこともしていたようですが、もうその頃は『みんな手を貸せ、芋が行く』とか、国策的な芝居しかできなくなっていました。

阿川 敵国の芝居だからシェイクスピアとかできないのね。

矢代 そうそう、それで芋の役ですよ、ずだ袋に入って、顔も出せないまま、袋の中でゴロゴロするだけの役を東野英治郎さんなんかとやってたらしいです。

 当時、俳優座の芝居はちょっとロシア系というか、社会的な主張のあるものが多かったんです。父はやっぱり銀座育ちで、歌舞伎とか宝塚とかも大好きでしたから、方向としては文学的な芝居を志していたと思うんですね。芥川比呂志さんや劇作家の加藤道夫さんとの交流もあって、俳優座から文学座へ移ることになった。その時に千田是也先生に宛てた手紙の下書きが残っていますが、青いというか、純粋に「僕は演劇は文学だと思います」みたいなことが書いてありました。子どもの時から宝塚をずっと愛していたというのは、阪田先生と同じですよね?

内藤 ええ、そうです。

新潮社 波
2018年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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