世界を変えた一冊 『利己的な遺伝子 40周年記念版』

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利己的な遺伝子 40周年記念版

『利己的な遺伝子 40周年記念版』

著者
リチャード・ドーキンス [著]/日高 敏隆 [訳]/岸 由二 [訳]/羽田 節子 [訳]/垂水 雄二 [訳]
出版社
紀伊國屋書店
ジャンル
自然科学/自然科学総記
ISBN
9784314011532
発売日
2018/02/15
価格
2,916円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

世界を変えた一冊

[レビュアー] 佐倉統(東京大学大学院情報学環長・科学技術社会論)

『利己的な遺伝子』は、世界を一変させた本である。正確に言うと、世界に対するぼくたちの見方を一変させた本である。それは、まさに科学革命と呼ぶのにふさわしい。

 この一冊の書物によって、温かくて親しみやすい生物の世界は、ドライでクールなデジタル情報の世界に変換された。

 歴史上、このような革命的大転換をもたらした本は、いくつかある。ニコラウス・コペルニクスの『天球の回転』は地球を宇宙の中心から引きずり下ろし、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』は人間もまた動物の一種であることを明らかにした。カール・マルクスの『資本論』は社会主義による国々を生み出す理論的基盤となったし、環境問題の重大性に警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』もそうだ。

 ドーキンス三五歳のときのデビュー作も、これらの革命的書物の列に連なる。しかも、ダーウィンやマルクスに比べると、はるかに短くて、やさしくて、読みやすい。

 古来、生物は「なまもの」と見られていた。哺乳類や鳥類の身体は温かくて柔らかい。その振る舞いは親しみやすく、可愛らしく、きまぐれだ。種類によっては、ときに危険で猛々(たけだけ)しいことがあっても、ぼくたちの肌感覚で理解できるからこその危険であり、危害である。

 身体の中を見てみれば、「なまもの」感はさらに増す。各種内臓や筋肉や血管がところ狭しと詰め込まれてお互いに役割を分担している。血液やリンパ液などの液体が身体中をめぐる。もっと解像度をあげて細胞を見ても、小さい器官が蠢(うごめ)いているのがよくわかる。蠢くということでいえば昆虫や線虫もそうだ。

 植物は動かないし、どろどろ感も少ない。しかし美しい花を咲かせ青々とした葉を茂らせ、ときにはそびえる巨木となって、ぼくたちの五感を癒やしてくれる。やっぱり植物も、温かい「なまもの」なのだ。

 ドーキンスの『利己的な遺伝子』は、この「なまもの」性を生物の世界から一掃した。彼は、生物の進化とは遺伝情報の自己複製過程であると喝破し、生々しくウェットな生命が、一皮むけばドライなシステムであると、多くの人を説得した。どろどろと蠢くアナログな世界から、目には見えないけれども1と0が並んでいるデジタル情報の世界へ。温かい癒しの世界から、冷徹で合理的な論理の世界へ。

 ぼくたちの、生命に対する畏敬の念は、複雑系に対する好奇心に変換された。

 以来四〇年。ドーキンスの起こした《利己的遺伝子革命》は、なんであれ革命というものがそうであるように、幾多の衝撃と混乱と反発と熱狂を伴いつつ、基本的には正しいという評価が定着した。この革命の精神は、時代を生き抜いて、生物学の基盤となったのである。フランス革命の博愛思想が近代国家の基盤となったように。

 利己的遺伝子革命がもたらした新しい認識のひとつは、生物は特別な存在ではないというものである。環境に適応し、自己複製する複雑系。そのうちのひとつが生命だ。生命は唯一無二の存在なのではない。人間の社会や経済システムなど、他にも似たような複雑適応系はたくさんあるし、それらも生命と同じ性質を持つであろうということを、この見方は予想する。

 実際、一九七〇年代半ば、『利己的な遺伝子』とほぼ時を同じくして、コンピュータのプログラムやアルゴリズムを生命の進化と同じ手法で進化させ、人間が作り込むよりもはるかに優れたパフォーマンスを実現することができるようになった。ロボットも、複雑で精密なものを作り込むのではなく、単純なものをたくさん作っておいて、周囲の環境に適応するよう学習していく手法が採用されるようになった。昨今の人工知能(AI)ブームも、もとをたどればドーキンスのこの本と同じ根っこから派生している。

 もちろん、この四〇年間の生物学は、『利己的な遺伝子』が扱っていないような話題についても大きな進捗を見せてもいる。代謝やエネルギーへの配慮とか、発生生物学と進化生物学の融合とか。だけど、ドーキンスがこの本で主張した、生物進化の基本は遺伝子の自己複製であるという見方は、微塵の修正も必要とされていない。むしろ、これらの新しい潮流と利己的な遺伝子という見方が合流して、生命の神秘の解明が、より深く、広く進む方向に、世の中は動いている。ためしに、話題になったユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』を開いてみよう。ほとんどどのページからも、ドーキンスの影響が立ちのぼってくる。

 そんな科学的地殻変動のきっかけになった、現代の古典がこの本だ。

 これを読まずして、生物やゲノムや脳科学やAIやロボットや社会や経済について、語ることはできない。

紀伊國屋書店 scripta
2018年春号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

紀伊國屋書店

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