【自著を語る】季語はじゃまもの?――岸本葉子『俳句、やめられません 季節の言葉と暮らす幸せ』

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季語はじゃまもの?

[レビュアー] 岸本葉子(エッセイスト)

岸本葉子
岸本葉子

「だって、季語があるんでしょう」。俳句に尻込みする人の多くが、口にすることです。

 テレビ番組の影響で、俳句に興味をおぼえる人は増えている気がします。芸能人が先生にこっぴどくダメ出しされる、赤ペンで添削されると結構それらしいものになる。俳句って意外と面白そう、あの番組を見ているとちょっとやってみたくなる。そんな感想を、俳句が趣味の私に言ってきます。

 その人たちに「じゃあ実際にやってみましょう!」とお誘いすると、まず返ってくるのがさきの反応です。季語を入れなきゃいけないらしいけど、何が季語かも知らないから。そして、語彙がない、教養がない、感性がないと続きます。「赤ペン俳句教室」の先生の夏井いつきさんもこの三つを、俳句には自分が向かないとする人が挙げる、三大理由だと話していらっしゃいました。

 私は声を大にして言います。季語を知らなくてもだいじょうぶです。歳時記という本に出ています。そう聞いて歳時記を手にとり、目次を開いてみた段階で挫折する人もいますが、それは「俳句をやる人って、こんなのみんな頭に入っているの?!」と驚くからかと思います。否です。覚えられるはずがなく、その必要もありません。歳時記は、受験で暗記させられた英単語本とは違います。句会では誰もが歳時記をめくりながら句を作ります。持ち込みが公認されているカンニングペーパーのようなものです。私は句会のときに限らず、いつでも傍らに置いています。

 俳句に親しむこと、十年目になりました。きっかけは俳句番組への出演です。赤ペンでダメ出しされる某民放の番組ではなく、今は司会を務めている「NHK俳句」にゲストとして出演しました。俳句は知りませんでしたが、ゲストにはそうした人が呼ばれることの方が、むしろ多いのです。出演した二十五分はあれよあれよのうちに終わりましたが、なんとなく面白そうだし、これをご縁にやってみるかと、番組のインターネット投稿に月一句ずつ送ることにしました。が、入選はおろか佳作にもならず、コメントを聞けないことには、自分の五七五が俳句になっているのかどうかさえわかりません。やめかけたところへ、知人から句会に誘われました。

 そこではまず、季語は覚えていなくても、だんだんに歳時記を読んでいけばいいとわかりました。が、語彙、教養、感性の「三ない」にはまだとらわれていたのです。

そもそも俳句というのはお寺とか古池とか柿といったものを詠むと思い込んでいたので、入江泰吉の大和路の写真をそのまま五七五に移し替えたような句ばかり、句会に出していました。それも仏像をただ「仏像」と言っては芸がない、「半跏思惟」とか「如意輪」とかいった言葉を使う方が、より高尚な句になりそう。半跏思惟の像の掌をかすめる風に秋の気配が、みたいなことを詠み、季節の微妙な変化をとらえる感性があるフリをしました。

 それらがいかに見当外れだったかを、句会で互いに句を詠み合い、コメントし合う中で知ります。私は語彙も教養もあるんですと言いたげな句に、誰が共感するでしょう。そして季節の移ろいは、私が感じましたと無理して言わなくても、季語が代わりに受け持ってくれます。季語の中に、その事物によって引き起こされる私の思い、のみならず、昔から人がその事物に寄せてきた思いが、すべて入っているのです。私という個の枠組み、私の人生の長さを超えた大きな世界を、季語は包含しています。季語は俳句に親しむ上でのじゃまものではありません。構えを捨てて近づけば、その大きな世界に、私を抱き取ってくれるものでした。

『俳句、やめられません 季節の言葉と暮らす幸せ』には、そうした俳句との付き合い、季語との交流で学んだことを書きました。読者には、趣味を持つよろこびを伝えたい、趣味のひとつとして私の愛する俳句に興味を持ってくださればうれしい、そして俳句を作らなくても季語の豊かな世界にふれていただければと願っています。

小学館 本の窓
2018年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

小学館

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