天童荒太・インタビュー 痛みの進化論〈『ペインレス』刊行記念特集〉

インタビュー

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ペインレス = Painless 上

『ペインレス = Painless 上』

著者
天童, 荒太, 1960-
出版社
新潮社
ISBN
9784103957034
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

ペインレス = Painless 下

『ペインレス = Painless 下』

著者
天童, 荒太, 1960-
出版社
新潮社
ISBN
9784103957041
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

【『ペインレス』刊行記念特集】天童荒太インタビュー 痛みの進化論


天童荒太さん

我々が痛みに対して本当に敏感なのはどの部分か

●これまでの天童ファンが読んだら、こんなの天童じゃないというふうに叫ぶ人が出てくるかもしれない。単純に言って、主人公の万浬は、私たちを癒してはくれませんからね。

天童 読者を癒そうという意図があって『永遠の仔』を書いたわけではないのだけれども、結果的に生きることに苦しさを覚えている多くの人に届いた。『悼む人』の場合も同じです。今、生きることの扱いの不平等さと死に対する不平等さが実はリンクしているのではないかという発想を形にしたものですが、結果的に癒しにつながるものがあったということなんでしょう。『孤独の歌声』では、人は時に孤独であることによって、生きていく上での大事な秘密の場所を確保できるのに、一方的にそれを辛いもの悪いものと捉えるのはおかしくないかという疑問を投げかけたつもりです。『家族狩り』にしても、家族を無条件によいものとする捉え方に対しての異議申し立てだった。そして、その異議申し立てを待ち望んでいた人が多かったということなんじゃないかと思うんですね。そもそも人間は、癒そうと思って癒せるものじゃないし。

●「痛み」というテーマにトライしたきっかけは何ですか。

天童 最初は、肉体的に痛みを感じない人に対しての興味が強くあって、それもやはりこの世界に対する異議申し立てになる存在だと思ったんですね。現代人は痛みに対してすごく敏感だけど、それを感じない人がこの世界をどう見るだろうかということに興味があった。『家族狩り』を書き終えて、痛みとはそもそも何だろうと思いを巡らせているとき、ふと気づいたんです。我々が本当に痛みに対して敏感な部分、それは実は心なのではないかと。精神的な痛みや怯えが引き起こしている社会的な問題のほうが、より大きいのではないか。そう考えてくると、体に痛みを感じない人間ではなくて、心に痛みを感じない人間を主人公にしたほうが、より力のあるものになるんじゃないかと考え始めたわけです。

●冒頭から驚くんですけれども、ペインクリニックの治療の現場の描写がすごい。天童さんは入念な取材をされる方ですが、取材の際のポイントは何でしたか。

天童 自分がその人物になりきって表現するというタイプの書き方をしてきたものですから、今回も、参考資料など外部から見える治療のあり方だけではなくて、自分が本当にクリニックの医師としての日常に身を置いたら何が見えてくるか、何を考えるだろうか、また患者から何を感じ取るだろうかといったことが焦点になりました。

●そもそも痛みとは何だろうかという問いかけが、この作品には常に行われていますね。

天童 痛みは嫌なもの、取り除くべきものというのが、我々の常識ですね。この痛みがなければどれだけ楽だろうかというように。しかし、ちょっと調べると、痛みがあるから人間は人間であり得る、つまり命を保ち得るのだという事実に行き当たったときに、まず驚きがあったわけです。ああ、確かにそうだ、痛みはシグナルになっていると。そこを起点に突き詰めていくと、愛や憎悪、セックスやテロなどにも、ある種の痛みが介在していることが視野に入ってくる。だけど心に痛みを感じない人物を主人公にしたとして、さてどんな物語ができるのだろうって、すごくそこでもがいたんですね。

セックスを通しての人体実験、自己確認

●その先に機軸となる設定が見えてきたと……。

天童 新潮社では『家族狩り』の次の作品に当たるから、強烈なインパクトを持ったサスペンス的なものにしたい。ある程度のプロットができかけるんですけれども、何か足りない気がして、何だろう、何だろうと唸っていたときに、だったらいっそ心に痛みを感じない人間と肉体に痛みを感じない人間のアイデアを合体させたらどうか……両者の出会いから、ある種の歪んだ愛のストーリーになったら、ひとつ上の次元に進めるのではないかとひらめいたわけです。でもこの二者の間で愛の物語というのは成立するのだろうか。我々は心に痛みを感じるがゆえに愛を感じる存在なのかもしれない。この人を喪うと嫌だとかね。その一方で、肉体に痛みを感じない人間についても、セックスをしたときに一般的な快楽を感じるだろうかと想像が及んでゆく。セックスにおいて、ある種の痛みがエッセンスとして介在するのは間違いないですから。別にSM的なことじゃなくても、噛んだりつねったりといった行為も日常的にある……。最終的に、痛みのない二者、ふつうだと深い関係の成立しない者同士の中に成立させ得るものがあるとすれば、それはフィクションとしてすごいエネルギーを生むだろうと考えるに至った。この二人は、愛は無理でも性愛は可能ではないか。そこを軸にしていくと、痛みを通して人間が存在する意味が問い直せるのではないかと。

●万浬は森悟に対して、人体実験でもするようなセックスを仕掛けますよね。克明なセックス描写が幾度も現れる。

天童 理詰めで考えていくと、森悟と出会った万浬が一番興味を持つのは、肉体に痛みを持たない人の快楽の有無であり、快楽のありかでしょう。体の表面が痛くないのはわかっていても、セックスとの関係については文献を調べても載っていない。彼女は医者として研究者として、そこは知りたいだろう。言ってみればここが二人の性愛小説を書くことの一番の核だと思ったわけです。いかに細かく順序立てて、いわゆる前戯から始まって一つ一つ性戯をきわめてゆく、このあたりの描写を入念に行うことこそが、痛みについてのテーマ、聖と俗、ロジックと肉体、両面をきちっと押さえていくことになるはずだ。絶対に外せないと。それこそ「こんなの天童じゃない」と言われようが何しようが、ここを書くことが、言ってみれば、オンリーワンであるための作家としての表現だったわけなので。

●一方、森悟はどういう経緯でペインレスになったかという件りも注目されますね。痛みと強い相関関係にある欲望の拡大を体現しているのが現代のグローバル企業。そこに森悟は勤めていて、前近代を象徴するような紛争地帯に行ってテロに遭う……。

天童 森悟のバックグラウンドを欠いては、この時代にこの小説を表現することの意味も出てこない。誰もが戦争とか紛争は嫌がっているのに、テロと報復は果てしなく連鎖する。その一方で当事者以外の人々は無関心そのもの。これらの根底にある痛みを捉えていくには、彼自身にそうした社会性なり世界像を背負わせる必要がある。他方で性愛を描くわけですからコントラストも強く出せると考えたんです。

●紛争地帯で彼は、前近代の側から試されますね。肌も露わな女性たちや幼さの残る少女を眼前にしながら、彼の背負っている近代が根本から問われるシーン……。

天童 シンボル化しているので、森悟は男だけれども、女性でも立場を変えればあり得ることでしょう。我々は、どれだけ理想や思想、信念を持っていようとも、自分の人間としての限界を超えられない部分があるのではないか。現代人は、結局欲望を拡大させるばかりでその限界を見極めないままやってきたけれど、この境界線みたいなものを、いかに人間の欲望を通して表現し得るか……。

進化するモンスター

●主人公・万浬の成長過程も凄味がありますね。教育実習中の女性教師や妹を、精神的限界まで追い詰めたり、サイコパスの殺人犯に接近したりする。しかしここには背景としての虐待といったものは決して描かれないですね。トラウマを抱えた末に彼女が出来上がったわけではない。

天童 彼女とその一族の歴史に、日本が経験した戦争をも含めて紙幅を割いたのは、痛みとか怯えとかいった人間が抱えている限界をより浮き彫りにするためです。我々が知性や理性によらず感情のみを優先させ、臆病に生きてきたことによって、世界がもう少しで滅びるかもしれないところまで来てしまった。彼女がトラウマによって存在しているのであればそこが表現できなくなりますから。そしてもう一つのモチーフである「進化」というものに繋がらなくなる。

●トラウマとは無縁、というところが新鮮ですね。

天童 成長プロセスの彼女は、他者との関係において、自分が痛みを感じないことが、いかに他人に作用し得るかをどんどん試していくだろう。何において試すかというと、やはりセックスだろうと思ったんです。その相手に教育実習生をあえて選ぶ。彼女はそうやって一皮ずつ剥けてゆく。モンスターが少しずつ餌を取り込んで大きくなっていくようなイメージですかね。

世界に対して「ノー」を提示する

●一方の世界では、亜黎という青年が登場します。先ほど出てきた進化という言葉、アポトーシスという生物の進化に欠かせない専門用語も作品の冒頭に使われていますが、進化という言葉を繰り返し使うのがこの亜黎です。

天童 血の気の多い政治屋がボタンを一つ押したら、大量の人間が死滅するところまできちゃった現代の状況において、これは人間である限り解決不能ということなんだろうと思うんです。そのことを我々もそろそろ認めたほうがいいんじゃないかなと。亜黎という一人の見え過ぎる人間、彼は第二次大戦で原子爆弾を経験しているという設定なので、その見え過ぎる目からは、今の人間である限りは平和や平等な世界など所詮無理なんだという結論が出る。しかし人間を超えるものがもし生まれたら、可能性や希望が生まれるかもしれない。そこにちょっと賭けてみようという人物が彼なんです。これもやはり、この世界に対する異議申し立ての一つです。

●その亜黎が、俺、結婚するんだと言い出して、その相手が意外や安酒場のマダムだった。鮮烈なパラドックスです。

天童 悩んだ末に出てきたのが、「通俗であること」だったんです。何だよ、これ、三文記事じゃねえかというような通俗性が、逆に普遍性につながるという発想がぽーんと出た。

●この作品は色んな意味で挑発的ですね。

天童 人の痛みが見えない、分からない、今のこの社会がそんなふうになったのはなぜだろうと。その疑問が頭を去らなくなった。現代では自分の痛みにすごく敏感になった反面、彼も痛い、彼女も痛いという他者の痛み、これを知的に、理性的に捉えて、思いやりの声をかけようというふうに行動するんじゃなくて、むしろ痛みを訴えて立ち上がった人たちに対して差別的になったり責めたりする。例えば沖縄の基地に反対している人に対して、すごく反感を持ってしまう。こうした状況にセンシティヴにならないと、もっと怖い時代が訪れるだろうという意識はありますね。

●それこそ読者を挑発するポイントの一つですよね。

天童 表現というのは……何だろう、ある種の対立するものがないと、僕は表現としては弱いと思う。『悼む人』にしろ、『永遠の仔』にしろ、『家族狩り』にしろ、現実を見ているようで見ていなかった人に、こういうことが起きているじゃないか、気づかないままでいいのかという、ある種の挑発を含んでいます。僕にとって表現というのは、今ある社会とか、今日の人々のあり方に対して、誰もが心の底で願っている窮極のイエスのために、一つのノーをいかに提示し得るか、そこにかかっているんです。

新潮社 波
2018年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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