自分の価値とは何かを問う 韓国ベストセラー作家の短篇集
[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)
自分の価値とは何か。肩書き、もしくは年収、あるいは有能さだろうか。けれどもそうしたものは、景気の変動や会社の都合で突然奪われてしまう。そのとき僕らは思う。ただ自分が存在するということそのものに価値はないのか、と。
表題作の主人公ピリョンもその一人だ。長年勤めた会社で降格になり、周囲の扱いもがらりと変わる。会社には彼の居場所はない。だが退職後の展望も見えない。そんな彼は昼休みに偶然、学生時代に親しかったヤンヒが小劇場でパフォーマンスをしているのを見つける。
全身タイツ姿で顔も隠した彼女は舞台で椅子に座り、別の椅子に観客を座らせて向い合う。無言のまま時間が過ぎ、やがて電気が点いて終わる。何も起こらない。けれども観客は当惑し、ときに泣き、満足する。
自分でも理解できないまま、この舞台に魅せられたピリョンは毎日通う。だがどうしても舞台に上がれない。彼女を見たいが見られたくない、彼女にコントロールされたくない。思えば十六年前、愛を告白してくれたヤンヒとちゃんと付き合えなかったのも、こうした自分の殻のせいだったのだろう。
このままでは生きていけないのは分かっている。それでも最終日を迎えて、彼は再びヤンヒを見失ってしまう。ヤンヒの言葉を思い出す。「木の前だと恥ずかしくならないんです。木は笑ったりしないから」。人はなぜ、よけいなものを剥ぎ取り、木のようにただ存在しながら、優しく寄り添えないのか。
一九七九年生まれのキム・グミは多くの文学賞を受賞した俊英で、この短編集は韓国でベストセラーになった。かつて学生運動に参加し、今の社会に順応できない男を描いた「趙衆均氏の世界」、アトリエの床に孤独に穴を掘り続ける女性芸術家の話「セシリア」など、収録作はどれも寂しく、深い。社会の外に出てしまう瞬間こそが救い、という彼女の価値転換が心に沁みる。