語りの内容と形式の“異常な乖離”。不思議な世界観を表現
[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)
先行作『工場』と『穴』を読んだときは度肝を抜かれた。なにしろ、語られる内容の呑気さ、無意味さに対する、語りの形態の異様なまでのトリッキーさ、そのズレが、けったいで禍々しい。逆に、とんでもないことが起きているのに、文体は「平常」そのもの、という場合もある。
作者のもう一つの特徴は、ことばの横溢、奔流、濁流だが、内容と形式の異常な乖離を、饒舌文体で表現しきるのは、離れ業と言ってもいい。
さて、本書『庭』では、蟻、ヤモリ、蜂、羽虫、バッタ、クモ、カエル、蟹、犬などの小さな生物や子どもや赤ん坊が、大半の編に出てくる。各編は、出産後、子育てをしながら書かれ、生活空間をまじまじと見つめた結果生まれてきたものだという。
多くの編が、庭を舞台の一部にしている。日本の庭というのは、とくに地方の旧い家では、私有地内でありながら、半ばひらかれた場でもある。本書の「どじょう」に出てくる庭の古井戸は、界隈で共同使用されている(ただし、水を汲む用途ではなく、妙な使い方なのだが)。また、「世話」に出てくる老人は、語り手の実家の庭に入ってきて、勝手にトマトを取ったり、返したりする。谷崎の小説に寄せた「庭声(ていせい)」では、石塀の隙間から「目」だけが侵入する。
多くは、心の庭先に踏み入られたり踏み入ったりする話といっていいのではないか。ある編では、離婚報告に帰省した女性に地元の老人たちがわいわいと話しかけ、きっと「うらぎゅう」に行くのだろうと決めつける。別の編では入院中の夫に会社から淡い色味のお洒落な花束が贈られてくる。会社の同僚には、夫とあやしげな関係にある女性がいる。
超常リアリズム的要素も魅力だ。真夜中に二人乗りの自転車を飛ばす寝たきりのはずの老人、地面の葉を「めくる」と口を開けている魚、訪問先の家で自分と出会う男……。
この世界観を次は長編でもぜひお願いしたい。