阿川佐和子×内藤啓子×矢代朝子 座談会〈後篇〉/文士の子ども被害者の会 Season2

対談・鼎談

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【座談会】阿川佐和子×内藤啓子×矢代朝子――文士の子ども被害者の会 Season2〈後篇〉

父よ、あなたは変人だった!娘たちが語りあうナミダナミダの体験談。

 ***

内藤 だから、お父様は門限の何時までに帰ってこないって心配してるわけでしょ?

矢代 いや、心配してないと思う。自分が心配するのがイヤなだけなの(会場笑)。娘が心配じゃなくて、イライラする自分がかわいそうなのよ。

阿川 うちはちょっと違う。要するに、母と一致団結して俺のケアをしろってことなのよ。そのメンバーが家にいないということが不愉快なの。

矢代 あ、だからだ、弟のところに子どもが生まれた時、つまり孫が生まれた時、父は「俺の面倒は誰が見るんだ!」って怒った(会場笑)。そしたら、それに「そうだよな」って賛同したのが北(杜夫)先生だったんです。後で北夫人に伺ったら、「同じにしなきゃいけないのよ」って。つまりお孫さんに「はいはい、これ」って何かあげた時は、「はい、あなたもこれ」って同じものをあげる(会場笑)。

阿川 うちの父も「孫は別段かわいくない」って言ってました。私は孫を産まなかったんですけども、兄に子どもが生まれて、たまにはおじいちゃんおばあちゃんのところへ連れていきますよね。父にも少し義務感はあるらしくて、最初のうちは祖父の顔をして我慢しているんです。でも、ちょっと時間がたって、わがままな孫が「ぼく、ここ座る」って父の椅子に座ったら、「おまえの椅子じゃない! どけ!」「ぼく、ここがいい!」「おまえの椅子じゃない!」。さんざん怒鳴って、孫ぐわんぐわん泣かせて椅子からどかせた。それを遠藤(周作)さんが聞きつけて、嬉しそうに「普通は孫と椅子を取り合ったりせんものやけどなあ」(会場笑)。もう孫と同じレベルで争う。

矢代 相手が孫じゃなくて、子どもだったら尚更ですよね。私たちが子どもの頃、母が作ったお弁当を父が機嫌の悪い時にたまたま見て「こんなに時間かける必要ない」って言ったらしいんです。要するに自分の世話がメインなのに、子どもの面倒を丁寧に見る必要はない(会場笑)。だから、お稽古事とかも極力やらせてもらえなかった。子どもがこういうの習いたいとか言っても、母がそれに時間を少しは取られるじゃないですか。そこがイヤなのね。

阿川 お稽古事についてだとうちではね、私にピアノを習わせるって話になった時、「うまくなったら軍歌を弾かせる。軍歌も弾けないような稽古ならやめちまえ」(会場笑)。すみません、矢代家と阿川家のヒドイ話ばかりになってますね。阪田家みたいに、オバサンが強いとどうなるんですか?

内藤 オバサンが強いと、オジサンに平気で「自分でやりなよ」とか(笑)。

矢代 え、阪田先生、ご自分で何かなさるんですか?

内藤 すごい手間はかかりますけど、出かける時には何着ていくから始まって、いろいろ努力はしていました。

矢代 中国との文化交流で、高山辰雄先生とかいろんな芸術家の方たちとあちらへ十日ぐらい行くことがあって、その時、父が帰国してから、「一回も着替えなかった」と母に威張った(会場笑)。「ママがいなかったから、何着ていいかわからなかったから」って。もう、母は大ショックですよ。父がわかるように、荷物には下着はここ、靴下はここ、シャツはここって、毎日の着替えをちゃんとセッティングして入れておいたのに、全く着替えなかった。しかも、子どもが褒めてもらいたいみたいに、「これでママ、洗濯する手間が省けたよ、褒めて」って感じで着替えなかったことを嬉々として報告してきた(会場笑)。

うちと似てる!

阿川弘之氏(中央が佐和子氏)
阿川弘之氏(中央が佐和子氏)

阿川 娘にも「俺の面倒を見ろ」って余波は来ませんでしたか?

矢代 うちの場合は、母がもう子どもよりも何よりも、父にべったりでしたから。家族で旅行に行く時も、一番軽い荷物しか父には持たせなかった。

阿川 やっぱり! うちと似てる!

矢代 例えば夏に軽井沢の山小屋へ行く時、長期滞在だから、子どもたちはトランクとか段ボールとか運ぶんですよ。見ると、父だけは万年筆と原稿用紙一冊ぐらいが入った小さな紙袋ひとつで、なんか「運んでる」って顔をするんです。

阿川 でも、矢代さんは結核なさって、肋骨が何本かないんでしょ?

矢代 うん。

阿川 だから守らなきゃって意識をお母様は持ってたんだと思う。うちはピンピンしてるんですよ(会場笑)。なのに、父が外国旅行から帰ってくると、「荷物があるぞ」って階段の下まで……うち、高台に建っていたんで、玄関まで長い階段があるんですよ、でね、荷物を取りに行くのはいつも母と私の役目でした。兄は中学の時に大病したんで、ちょっと病弱だし、弟もまだ小さかったし。父は、私たちがスーツケースとか重いものを運んでいるのを見ながら、「おお、重いか、大丈夫か」って口だけで言って、アタッシェケースだけ持ってタッタカ上がっていく。ひどい時はね……すみませんね、私ばっかりしゃべって。どんどん出てくるの(会場笑)。父とは「暗黒の二人旅」というのをやったことがあるんです。

内藤 よくやりましたねえ。

阿川 それも懲りずに何回かやったんですけどね。ある時、エジプトに行ったんですね。父との旅行だから、将来愛する人とは絶対行かないようなところを選ぼうと思って、エジプトに行くことにしたんです。そしたら父は鉄道好きなものですから、カイロからピラミッドがあるルクソールまで鉄道で行ったら、途中で食べたものがよくなかったらしくて、父がおなかを壊してホテルで寝込んだんです。「おまえだけピラミッド見てこい」って、私ひとりで観光して。

 で、翌日カイロへ戻るのは飛行機だったんですけど、自分は弱っているからって、荷物を全部私に持たせるんです。これもあれもそれも全て持たせて、父が「ああ、つらい。おお、つらい」とか言いながらカイロの空港へ下りたら、連絡が行ってたようで、「阿川先生、大丈夫ですか?」ってお迎えのJALとか商社の人たちがパーッと並んでたの。その方たちが見えた途端に、父がハッと振り返って、「おい、荷物貸せ」(会場笑)。私から荷物、奪ったあとは平然としちゃって、「大丈夫ですか、先生」「いやいや、大したことはないんです。ご心配おかけしました」とか言ってた。そんな父ですから、基本的に重いものは持たなかったですね。引越しは一切手伝わないし。

内藤 片付けなんて全然しないし。

阿川 阪田さんは驚くほど捨てるのが嫌いだったんですって?

内藤 そう。あとはメモ魔で、何にでも書いちゃうんですよ。お菓子が入ってた空き箱とか包装紙とか手当たり次第に書いて、しかも捨てないの。

阿川 それはいつか仕事のネタになると思って?

内藤 そうだと思うんですけどね。

矢代 でも、『枕詞はサッちゃん』が書けたのも、お父様のメモの山のおかげじゃないですか?

内藤 確かに読み始めると面白いんですよ。でも、あまりに莫大な量だから、遺品の整理が全然はかどらない。

阿川 そのメモを読んだことによって、お父上への理解がさらに深まったりしたわけでしょ?

内藤 まあ、オモロイおっさんやったなあ、と。

阿川 そのオモロさは、矢代家や阿川家のおっさんたちとはちょっと違う?

内藤 かなり違う(会場笑)。とにかく父は、「俺はダメだ」が口癖で、自罰的なんですね。

阿川 「今回はいいの書けたぞ」とか「売れたぞ、『サッちゃん』」とか、そんなふうなことは言わなかった?

内藤 そういうのは実際あまりなかったしね(会場笑)。

 父は戦争へ行って、戦後は東大で三浦朱門さんと再会して、一緒に「新思潮」って同人誌をやっていたんですけど、当時は太宰治みたいな青白い顔して「絶望……」とか言っているのに憧れてたらしくて、暗ーい小説を書いていたんです。私も読んでみたけど、全然面白くない(会場笑)。そしたら三浦さんに、「太宰の真似しても、『太宰分の一』になるだけだからやめろ」って諭されたそうなんですね。

矢代 まあ、あの頃の文学青年はみんな太宰の真似をしてたらしいですからね。

阿川 父が亡くなる直前、病院へ行ってもあまりに会話がないものだから、私が話題に困って――やたらに今、若い人たちに太宰治好きって多いじゃない? 又吉直樹さんもそうだし、押切もえさんとか太田光さんもそう。「太宰治はすごい」って若い人たちがまた増えてるんだよって話をして、「父ちゃんは太宰治はどういうふうに見ているんですか?」って訊いたの。そしたら、「太宰は読んでない」と。志賀直哉先生と太宰が文学上の対立というか喧嘩したから、「志賀先生が嫌いな太宰は俺も嫌いだ」。それが父とのほとんど最後のまともな会話でした。

新潮社 波
2018年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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