阿川佐和子×内藤啓子×矢代朝子 座談会〈後篇〉/文士の子ども被害者の会 Season2

対談・鼎談

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【座談会】阿川佐和子×内藤啓子×矢代朝子――文士の子ども被害者の会 Season2〈後篇〉

偏食とオナラ

阿川 私なんか、恋する人が「実は僕、将来、小説家になりたいんだ」なんて言い出したら、「ハイ、さようなら」ですよ。っていうほどボーイフレンドがいたわけじゃないですけどね。いま、見栄張った?(会場笑) だから文学系というか、文系は危険なので、理系の人と結婚したいと思ってたんです。

 いつだったか、室生犀星さんの原作で『杏っ子』って、木村功さんと香川京子さんの映画を見て、「あ、これはダメだ」と思ったの。香川さんが作家の娘で、木村さんが作家志望の青年なのね。ああ、あんな文学好きの男性と結婚したら私には不幸しか来ない、破綻の道をたどるに決まってると思って、相手を選び抜いていたらこんな年になっちゃったという(会場笑)。まあ父も、作家志望の男性と娘が結婚するのはイヤでしたでしょうけどね。父としては、娘の幸せも望んでいたかもしれないけども、できれば海軍の家系の人と結婚してくれればいいと(会場笑)。私の年頃は学生運動華やかなりし頃で、父は「学生運動している学生はみんな死んじまえ」ってタイプでしたけど、気骨のある男子はみんな左翼系というか、学生運動している時代でしたから、私と頃合いの年齢の男子はほとんどダメですよね。それで、「海軍がいい」。さらに、「おまえが好きな人間がいたら、まず食べ物のチェックをするぞ。味のわかる男じゃないとダメだ」と。あまりにハードルが高くて、もう泣いちゃいそうでしたよ。

内藤 私は、うちにさえいなければいいから、サラリーマンと結婚したいって思ってた。昼間、うちにいられるのがイヤ(会場笑)。

矢代 たしかにサラリーマンって新鮮でした。

阿川 そう、朝出かけて、夜帰ってくる人がよかったんだよね。

内藤・矢代 そうそうそう。

矢代 あれだけ家にいられると、母はたいへんだったと思うわ。物書きの場合、書けないと旅館とかホテルとかに一週間くらい閉じ込められて書かされる「缶詰」ってあるけど、父が缶詰になるっていうと、母はすぐ寝室の大掃除とか、父がいない時にしかできないことをやろうって予定を立てるんですよ。子どもたちも、パパが嫌いなものを晩御飯で食べられるし。

阿川 かわいい自由ね。何がお嫌いだったんですか。

矢代 ニンジンと……。

阿川 子どもみたい(会場笑)。というか、子どもがニンジン食べたがるっていうのもおかしい。

矢代 普通は子どもの方がニンジンをよけたりするよね。でも、うちは父がカレーなんかのニンジンをどけるんですよ。それで、「パパがいないから、わー、のびのびー」なんてやってたら、一週間の予定が二日ぐらいで帰ってくるの。うちだとワガママができるから、缶詰先にいるのはイヤなのね。

阿川 これは本当に余談ですけど、父はだいぶ歳とってから糖尿病になったんですが、お医者さんに言われるまま、意外と律儀に毎朝の日課として散歩をしていたんですね。で、父はオナラ症なわけ。晩御飯をみんなで食べてて、父が身体を傾けて片手で椅子のひじかけに体重をかけ始めると、みんなで「はい、避難避難!」ってダーッと台所へ逃げてたの。「ブブブブッ!」って終わった後、「ごめんなさいは?」って問い詰めるんだけど、父は平然と「くさくない」。くさいって(会場笑)。食事中に限らず、しょっちゅうオナラするんです。

 それが講演旅行に行った先で、いつものように散歩に出かけたら、講演の主催者の方とか編集の方とかが、「先生、お散歩ですか。ご同行いたします」「いや、結構結構」「いえいえ先生、慣れない土地で迷うといけませんし」「いやいや、大丈夫大丈夫」なんつって。「でも、ついて来るんだ。自由に屁がこけなくて閉口したよ!」ってものすごく不機嫌だった(会場笑)。

矢代 かわいいじゃないですか。

阿川 うちではいくら「くさい!」と文句言われようが、酔っぱらって机に足上げようが、遠慮いらないし、自由じゃない? 「汚いことよ。志賀先生がご覧になったらどう思われるかしら?」「うるさい! うちはもともと育ちが悪いからいいんだ!」なんてね。しかしまあ、音の絶えない男でした。ブッていうオナラ以外にも、ガーッ、ペッペッとか、ジャーッ、ブブッ! なんでこんなにうるさいんだろうと思っていました。

矢代 わかる気がする。自由気ままにやれているって実感があったんでしょうね。

阿川 ワガママが通るというか。

内藤 やっぱりお母様が我慢強かったんですよ。そこがうちのオバサンと違うのね。

娘を見る父の視線

矢代 『枕詞はサッちゃん』を読んで、何が違うのかなと思ったら、お母様は大阪のお嬢様育ちなんですよね。

内藤 そうなんです。で、「私はほかの人とでもできたのに、あなたと結婚してやった」って意識がずっとあった(会場笑)。

阿川 でも、お父様のほうは一途な愛だったのね。本に書かれてたけど、晩年、お父様が鬱病で入院なさってるところへ、ちょっと弱られてたお母様を連れて啓ちゃんがお見舞いに行って帰る時――。

内藤 病棟の出口まで手つないできて、母は背中が少し曲がりかけていたんですけど、別れ際に「オバサンは世界一可愛いおばあさん、だから、背中を伸ばして歩きましょう」って、母の背中をさすりながら言うんですよ。病棟の外へ出てから振り返ると、身振りと口だけで同じことを繰り返したんです。「オバサンは世界一可愛いおばあさん、だから……」って。

矢代 お母様が認知症で、お父様が鬱病になられて、でもそこからの夫婦の情愛の描写が素晴らしかったです。私はこの本、前半も面白かったですけど、後半は本当に詩人の晩年を描いたノンフィクションとしてすごく感動しました。鬱であっても、詩人の口から出る言葉はすべて詩になっているなと。

阿川 それを描いている啓ちゃんの文章力も素晴らしいよね。啓ちゃんは若い頃はものを書くって志望はなかったんですか?

内藤 父は、曲が先にあって、それにあとから言葉を入れて歌にする、という仕事をたくさんやってたんです。ある時、「おまえ、やってみるか」って、下請けが来たの。

矢代・阿川 おお!

内藤 で、一応やったのね。でもそれを見せたら、一瞬で「あ、おまえ、あかん」(会場笑)。才能ないのよ。

矢代 そこはやっぱりお父様、プロなんですね。プロの目で見られたんですね。

 そういうケースなら、うちの父は私の作文や妹の詩をけっこう戯曲に使ってましたよ。黙ってるから、当時は知らなかったのね。大人になって、父の芝居を見たら、ひょんなところで「あれ? これ私の作文じゃない?」って。

阿川 お父様は朝子さんの舞台を見て、何か仰ったりなさった?

矢代 『枕詞はサッちゃん』の中で、阪田寛夫さんがなつめさんに芝居の感想を書き送っているところがありますよね。あれを読んで、私が「ああ、阪田さん、お偉い」と思ったのは、きちんと一線を引いて、あくまで〈素人の父親〉の意見として書いているなと思ったんですよ。うちも、私が芝居を始めてから、一切、ダメ出し的なことは言わなかったんです。「演出家に任せたんだから、俺が口出しすると演出家に悪い」って言っていました。確かに芝居の場合って、いくら劇作家だといっても、父からダメ出しをもらったところで仕方ないんですよね。

阿川 例えば、「あの舞台はなかなかよかった」とか、そういうようなお言葉はなかったですか。

矢代 「あれはよかったよ、頑張ったね」ぐらいのひと言ふた言はあったんですけど、詳細は言わなかったです。やっぱりもう、自分の娘というより、「演劇界にやっちゃった」って感じはすごく持っていたんじゃないかな。一歩引いていたと思います。面白かったのは、父は結核を二回やって肺を切っていたから、劇場みたいな密室は苦しいらしいんですよ。苦しいというか、空気が足りなくなって、よく咳をするんです。私が文学座へ入って、研究所での初めての発表会の日、ふと「今日、パパ来てるかなあ」と思っていたら、暗転になった時、コホンって父の咳が聞こえたんです。「あ、パパ来てるんだ」って。

阿川 素敵な話ね。

矢代 それは、芝居中にはこらえにこらえてから出る咳だったの。娘だからわかったんですよ。その時に、なんか初めて、「あ、私は女優の道に進んだんだな」と思えたんです。で、父が亡くなった直後に出た芝居で、暗転の時に、ふと「父の咳が聞こえるかな。いや、もう父の咳は聞こえないんだ」って思ったの。見に来た時も、楽屋にも来なかったし、何か伝言があるわけでもなく、そうっと帰るだけだったんですけどね。

 そんな経験があったから、ご本を読んで、「ああ、阪田さんは本当になつめさんに優しかったな」って。私がもしもこんな丁寧な手紙をもらっていたら、ちょっとウザいけど嬉しかったろうなって思いました。

内藤 妹は本当にウザがっていましたが(会場笑)。

矢代 何か注意されたところで、どうしようもないですものね。でも、あの手紙は素晴らしいと思った。

阿川 さっきも言ったけど、それを書きとめる啓ちゃんの文才もあると思うの。ちっちゃい頃、啓ちゃんと毎日のように遊んでいたのに、私が引っ越したものだから、時々手紙でやりとりするようになったんです。その頃からもう啓ちゃんの文章は面白かったですよ。品がよくて、おっとりしてるんだけど、ちゃんとオチもあって。お父様は啓ちゃんの文才に対して何か仰ったりしませんでした?

内藤 何も。矢代さんちみたいに、娘が書いた作文なんてまず読んでないし。

矢代 本当に?

内藤 本当。勉強を見てくれたこと一回もないですし、どこか遊びに連れていってくれたこともない。

阿川・矢代 それはない(会場笑)。

阿川 あるわけがない。あと何が不幸だった?(会場笑)

矢代 言ってごらんなさい(会場笑)。

内藤 自分がダメだから、娘もみんなダメだって思っているところがあったんです。だから、なつめに手紙を出すのも、ダメだから出してるんですよ。「周りの人の方がうまい。おまえは下手だ」って。

矢代 なつめさんは、そういうお父様とのバランスで、すごくいい形で舞台に立っていらっしゃったと思います。なつめさん、つまり大浦みずきさんって、謙虚でありながら押しの強さは持ってたじゃないですか。実力も伴って、本当に素敵なスターだった。

阿川 なっちゅんは泣き虫だったけど、頑固というか、周りの様子を見て自分が引くなんてことはなかった子どもでしたよね。

内藤 のびのび大きく育った、みたいなね。

矢代 なつめさんとは何で遊んでたんですか? お人形ごっことかそういうのですか。

阿川 いや、お人形ごっこはしない。団地の敷地内で缶けりとか。

内藤 で、阿川家の前だけ静かにすると(笑)。

新潮社 波
2018年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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