『こころに残ること』 アリス・テイラー著

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こころに残ること 思い出のアイルランド

『こころに残ること 思い出のアイルランド』

著者
アリス・テイラー [著]/高橋歩 [訳]
出版社
未知谷
ISBN
9784896425475
発売日
2018/04/10
価格
2,700円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『こころに残ること』 アリス・テイラー著

[レビュアー] 尾崎真理子(読売新聞本社編集委員)

生活と感情の原風景

 世の中には記憶力に優れ、万人に懐かしい環境で育った人がいて、この著者のように自身の子供時代を描けば、読み手が忘れていたこころの故郷へと導く。

 身近な人々のために書いてみたという、彼女の最初の思い出の記は、1988年にアイルランドで出版されるや、同国史上、最大とされるベストセラーになり、日本にまで読者は広がった(邦訳版は94年刊『アイルランド田舎物語』)。

 町から3マイルも離れた牧場の古い大きな家に暮らす両親と兄、5人姉妹、家畜たち。第2次大戦から間もない時期にもかかわらず、同国の南西部は平穏で、新聞やラジオが運ぶ未知の世界からのニュースに人々は夢中になっていた――そうした背景は4年前、70代半ばで書かれた本作まで変わらない。

 ただ、四半世紀を隔てた両作を比較すると、年齢と共に記憶はこのように純化され、結局、こころに残り続けるのはこうした日常の一場面なのか……と知らされる。近作で何より際立つのは母親の存在感で、カトリックの信仰心にあつい母親がロザリオを手に「神よ、わたしの口を開いてください」と始める「長いお祈り」の章は強い印象を残す。家族一同が台所にひざまずいて捧(ささ)げる祈りは、一日の労働の重みと共にあり、その情景は夕刻のひとときを永遠のものにしている。祈りの記憶は苦難のたびに一族一人一人をなだめる「温かい手」になったとも記されている。

 洗濯や料理、身体の衛生、あらゆる用具の修繕……。果てしない作業を繰り返す平日、だからこそ格別な、日曜日のくつろぎも、年月を経ていっそう子細に楽しげに語られる。

 国も時代も宗教も超えて、私たちの気持ちに寄り添ってくるのは、人間の生活と感情の原風景がここにあるからだろう。いくぶん単調で素朴な語り、しかし傍らにはワーズワースやイエーツらの詩編も配され、そこに文学の力強い伝統を感じた。高橋歩訳。

 ◇Alice Taylor=1938年生まれ。ゲストハウスなどを経営した後、著述家に。近作に『とどまるとき』(未知谷)。

 未知谷 2500円

読売新聞
2018年5月6日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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