【文庫双六】生田耕作は京都学派仏文のスターだった――野崎歓

レビュー

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地下鉄のザジ

『地下鉄のザジ』

著者
Queneau, Raymond [著]/生田 耕作 [訳]
出版社
中央公論社
ISBN
9784122001367
価格
761円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

生田耕作は京都学派仏文のスターだった

[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)

【前回の文庫双六】京都舞台に架空の協議 展開の妙と秀逸なオチ――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/552571

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『鴨川ホルモー』のような作品が書かれるのは、京都が学生にとっての楽園だからではないだろうか。

 高校時代の親友に京大に進んだ男がいたので、夏冬の休みには彼の下宿に転がり込んで京都を満喫した。そして東京に比べ京都の学生たちは何とのびのび暮していることかと思わずにいられなかった。飲みに行ったって終電なんか気にする必要もなく、仲間はみんなすぐ近所にいる。しかも街は京都なのだ!

 フランス文学かぶれだった僕は、京都学派の多彩さにも惹かれていた。とりわけセリーヌやバタイユ、ブルトンやマンディアルグといった当時の若造にとっての聖典の数々を訳していた生田耕作はスターだった。現代思想をぼろくそにこきおろし、文学への耽溺を語ったエッセー集『るさんちまん』巻末には、生田のお眼鏡にかなったフランス小説のリストが掲げられていて、未読の本の題名に夢をかきたてられたものだった。

 生田訳で一般の人気を博したのは『地下鉄のザジ』だろう。なまいき少女ザジが大人を相手に乱発する「けつ喰らえ」は忘れがたい。クノーの原文では「モン・キュ」。べたに直訳すれば「わたしのお尻」。これが「義務けつ喰らえ」「大人、けつ喰らえ」「教育者けつ喰らえ」と自在に活用されていく。

 クノー作品の魅力は「語り口の巧みさ、ことばそのものの面白おかしさにつきる」と生田は解説で述べている。彼の訳業の魅力もまさしくそこにあった。適度な硬質さもありつつ歯切れがよく、読んでいて元気が出る訳文なのだった。

 親友の下宿に居候していたとき、農学部生でありながら文学好きだった彼と生田邸に行ってみようということになった。どうやって番号を調べたのだったか、お宅に電話してみると「生田は最近、家に戻っておりません」とのことで諦めた。ご在宅だったらずうずうしく押しかけていたかもしれないと思うと冷や汗が出る。もう四十年近く前の話だ。

新潮社 週刊新潮
2018年5月24日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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