『野蛮なアリスさん』
- 著者
- ファン・ジョンウン [著]/斎藤 真理子 [訳]
- 出版社
- 河出書房新社
- ジャンル
- 文学/外国文学小説
- ISBN
- 9784309207407
- 発売日
- 2018/03/26
- 価格
- 1,760円(税込)
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
誰でもないものになること、〈人間〉をやめること
[レビュアー] 五井健太郎
韓国現代文学の世界から、過激派があらわれた。めちゃくちゃ暗いが理由がある。短篇集『誰でもない』を一読して感じられるのは、ごく自然な救いのなさである。なにげないはずの暮らしが当たり前のようにすこしずつ破綻していくさまが、静かな筆致で描かれる。破綻の原因を特定してみせるのではなく、その自然さがそのまま示される。日常とはいまや、細かな失敗の連続なのだとでもいうように。どうしようもないと看過されるような失敗や敗北が繰りかえし描かれる結果として、空気のようにただよう曖昧な暴力の存在が、確実に読者へと突きささる。
いわばペシミズムを組織化することによって、この過激派がいったい何を名指し、何にケリをつけようとしているのかは、『野蛮なアリスさん』でよりはっきりと示される。舞台となる農村コモリのなかに連鎖する暴力は、あからさまでありながら、すでに何重にも層をなすものであり、やはり特定の何かに還元することのできないものだ。歴史や経済の問題はたしかにある。だがそれだけではない。解決を拒むような状況の象徴となるのは、虐待やネグレクトのなかで長じたすえ、街頭に立って悪夢を見るようにこの「失敗と敗北の記録」を語る主人公の少年アリシアの、「女装ホームレス」という、その現在の姿だろう。
読む者をグッタリとさせるような救いのなさ。だがそれこそがこの過激派の美点である。その暗い光はたとえば、アリシアが弟に語って聞かせる「お話」のひとつのなかで輝く。「ネ球」と呼ばれる「丸い生きもの」の上に繁栄した「ヤム」と呼ばれる者たちは、やがて「貝」=貨幣経済を知り、そしていつしかそれに縛られたすえに決断する。「貝工場を爆破しよう」。しかしその運動はすぐに頓挫し、ようやく「ヤム」たちは気づく。「貝が悪いんじゃない、ヤムが悪いんだ」。こうして彼らは、「ヤム」であることをやめることを選ぶ。「それで、どうなったの。/死ぬんだよ。/え、死ぬの。/みんな死ぬ。/うわー。/……」。「大気中に広がる銀河の光」に照らされながら、「喜んで」死んでいく「ヤム」たち。その集団的な自殺のなかで、「ネ球は静かにひっくり返」る。
幼い兄弟の内面に宿った黙示録、その終末論的な革命観は、私たちが真に敵とすべきものが何なのかを明示する。つまり、近代的な主体としての〈人間〉こそがそれである。〈人間〉を殺すこと、しかしなによりもまず、自らの内部において。正しくもアリシアのいうとおり、自らの外に対象として存在し、自身がいま感じている苦痛を相対化するようなものは、たとえそれが革命を照らしだすあの「銀河」であっても、「クソ」でしかない。誰かとしてではなく、誰かのためにでもなく、〈人間〉の二元論の外で、誰でもない自分自身だけを根拠として語り、書き、生きること。それこそが、自らの内なる〈人間〉を殺すことであり、アリシアを生みだしたこの世界を終らせる唯一の方法だ。「君は、どこまで来たかな」。何度もそう呼びかけつつ、彼は待っている。たとえ失敗や敗北にまみれることになろうとも、この過激派に続き、〈人間〉をやめよう。