【文庫双六】大正14年、白秋の“心もはずむ”樺太紀行――梯久美子

レビュー

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フレップ・トリップ

『フレップ・トリップ』

著者
北原, 白秋, 1885-1942
出版社
岩波書店
ISBN
9784003104873
価格
990円(税込)

書籍情報:openBD

大正14年、白秋の“心もはずむ”樺太紀行

[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)

【前回の文庫双六】身長143センチの林芙美子が憧れのパリを描く――川本三郎
https://www.bookbang.jp/review/article/553684

 ***

 狭い賃貸暮らしで、また手に入ると思われる本は譲るか売るかしてしまうので、『下駄で歩いた巴里』もだいぶ前に手放したのだが、昨年また買い直した。理由は、収録されている「樺太への旅」を読み直したかったから。昭和10年、林芙美子は当時の樺太に旅をしているのである。

 昨年秋、私はサハリン(旧樺太)に旅をした。戦前の樺太には多くの作家が旅をしているが、その一人が芙美子である。無謀と紙一重の天真爛漫さが横溢するシベリア鉄道・パリ編に比べればいささかおとなしいが、例によって描写が具体的で、「河岸には、キスのような色をしたキウリと云う魚がすだれのように干してありました」などと書いてあるので嬉しくなる。あのキュウリ(北海道以外ではほぼ知られていない魚)に目をつけるとは、さすが芙美子だ。

 芙美子の10年前に樺太に旅行したのが北原白秋で、その紀行文が『フレップ・トリップ』である。

 大正12年、鉄道省によって稚内と樺太の大泊の間に連絡船が就航し、観光客も増えた。白秋が参加したのはその2年後、大正14年8月に鉄道省が各界の名士を招待した総勢300名の樺太観光団である。

 旅のハイライトは、小さな岩礁に5万頭のオットセイと30万のロッペン鳥(ちょう)が繁殖のためにやってくる海豹島(かいひょうとう)。そこで白秋が書いた詩は「生きている、生きている。/動いている、動いている、動いている。/生長し、生殖し、受胎し、産卵し、展望し、喧騒し、群立し、思考し、歓喜し、驚異し、飛揚し、飜躍し、―島そのものから、ああ、島そのものからすばらしい創世紀にあるのだ」といった調子である。

 ロマンチックでやや陰鬱な白秋の詩や短歌のイメージを期待して読むとびっくり仰天する、ほとんど躁状態の紀行文。読んでいると樺太がものすごく楽しいところのように思えてくるから、鉄道省の目論見は成功したといえるだろう。

新潮社 週刊新潮
2018年6月7日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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