病から平成をとらえ直す

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

知性は死なない 平成の鬱をこえて

『知性は死なない 平成の鬱をこえて』

著者
與那覇 潤 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784163908236
発売日
2018/04/06
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

病から平成をとらえ直す

[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

 著者の名前は、話題を呼んだ『中国化する日本』などで知っていた。だが、その後、双極性障害(躁うつ病)を発病、一時は本を読んだりものを書いたりすることもできなくなって入院し、勤務先の大学も退職していたというのは、この本が出るまで知らなかった。

 気鋭の日本近代史研究者であり、ジャーナリズムでも活躍していた著者にとって、それまで、「自分という人間がきずいてきた能力そのものが、ある日突然、内側から消滅する」理解を超えた事態は、心底、恐ろしかったと思う。

 本書は、来年四月で終わる平成という時代を振り返りながら、発病までと、病気のこと、こうして再び本を書けるようになった回復までの道のりをしるす。著者の言葉を借りれば「挫折と自己反省の手記」であり、双極性障害やうつ病に対する誤解を解こうとする体験的な啓蒙書であり、病によって得られた視点を通して平成をとらえ直す同時代史でもある。

 新たに生まれた視点が何かというと、それは身体感覚である。たとえばソ連が崩壊したことも、アメリカでトランプ大統領が選出されたことも、「(帝国の)にない手となっている人びとの身体的な自己像を超えてしまったときに、崩壊を起こす」という指摘は、言語と身体の離反という、著者自身の経験から生まれたものだろう。

 平成の三十年間は、「知性」や「知識人」の敗北が明らかになった時代だと著者は言う。著者自身、敗北した側の一員に含められるが、彼の立場はいま世界中を覆う「反知性主義」とは異なっている。

「『反知性主義』ということばが、使用者の対立相手にだけむけられる」ことには異議を唱えるが、離反する「知性」と「反知性」のあいだに立って、「知性」の側から双方に橋を架け、なんとかつなごうとするようである。

 病気がわかり、出口のない悪循環に絶望した日々もあったようだが、過去を振り返る筆致は淡々と冷静で、決して沈鬱ではない。「もういちど自分が本を書けるようになるとは、思いもしませんでした」と「おわりに 知性とは旅のしかた」に書くとおり、そこまで回復したことの純粋な喜びもあるだろう。

 病気をしたことで新たに生まれ、あるいは失われた人間関係を面白がってもいる。何より、病気をへて、自分の眼に映る世界が新たな相貌を見せはじめたことへの驚き、知的好奇心の大きさが、この本の色調を思いのほか明るいものにしている。

 精神の病を含むという、自分自身に起きた重大な変化を描き、変化した自分の目にうつる時代を描く。ほかに類書のないこの本は、人間の知性への深い信頼なくして書くことはできなかったはずだ。

新潮社 新潮45
2018年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク