『さざなみのよる』 木皿泉著

レビュー

5
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さざなみのよる

『さざなみのよる』

著者
木皿 泉 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309025254
発売日
2018/04/18
価格
1,512円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『さざなみのよる』 木皿泉著

[レビュアー] 朝井リョウ(作家)

踏ん張る力を生む一行

 小国ナスミという四十三歳の女性が亡くなるところから物語は始まる。夫、姉、妹など彼女の親族から、過去に幼少期のナスミを誘拐しようとした男性、中学生のナスミと家出を試みた同級生、その後ナスミの夫と再婚する女性など、一話ごとに登場人物が変わる。ナスミがいたから辿(たど)り着くことができた現在、ナスミが喪(うしな)われたから現れた未来。それこそ波の如(ごと)く変化していく景色が丁寧に綴(つづ)られる。魅力的な人物造形、十四の物語を似通わせない構成力など特筆すべき点は多いが、何より一文に収められている感情の分量が多く、行間が豊かに潤んで感じられることに胸を打たれた。誰もが言葉にできるわけではない、だけど人生の中で忘れられないような数秒間を次々に暴き出す文章は、俳句や短歌の名作選を読んだかのような読後感を生む。

 印象的だったのは第八話だ。語り手はナスミが勤めていた会社の同僚、加藤。彼女は、自分にひどい仕打ちをした上司にナスミが手を上げてくれたとき、保身に走ってしまったこと、そしてその上司の口利きで転職した会社に今も世話になっている情けなさを、病床に臥(ふ)せるナスミに吐露する。悔やむ加藤に対し、ナスミは言う。「お金にかえられないものを失ったんなら、お金にかえられないもので返すしかない」。

 私はこの台詞(せりふ)を読んだとき、人生のおまじないが一つ増えたと感じた。生きていると、目の前の瞬間を乗り切るため、大切にしていた信条や言葉を手放さざるを得ない瞬間がある。だけどこの台詞に出会って、そんな不誠実な人生でも、絶望だけはせず、今後育ち得る誠実さの種を見出(みいだ)す人間でありたいと強く感じた。本は人生におまじないをくれる。心がどろっと溶け出しそうになったとき、踏ん張る力を生む一行をくれる。ただ、その一行のみ書かれた看板が掲げられても、不思議と効力を持たない。私たちと同じように生きていると感じられる人間が唱える言葉だから、魔法の力を宿すのだ。

 ◇きざら・いずみ=1952年生まれの和泉務と57年生まれの妻鹿年季子(めが・ときこ)による夫婦脚本家の筆名。

 河出書房新社 1400円

読売新聞
2018年6月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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