初老夫婦の家への闖入者 その存在が「日常」をかき乱す

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初老夫婦の家への闖入者 その存在が「日常」をかき乱す

[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

 子どもたちはすでに独立、東京郊外の一軒家に二人きりで暮らす、72歳の昌平と69歳のゆり子のもとに闖入者がやってくる。昌平のけがをきっかけに、偶然知り合ったこの一樹という26歳の青年に「家事手伝い」のアルバイトを頼んだのはゆり子なので、実際には無理やり闖入したわけではないが、定年後の穏やかな暮らしを送っていた夫婦のこころは、ふつふつと泡立ちかき乱される。

 クロスバイクでサイクリングを楽しむ昌平もゆり子も、老人というには若すぎる。老人になりたてで、まだ若さも残る宙ぶらりんな不安定さが、二人だけで暮らしているあいだは表に出てこなかったが、身も心も若い一樹があいだに入ってきたことで引き出されていく。

 若者がそばにいるのは日常にプラスの変化をもたらす。病院への送迎、体を動かす庭仕事を頼んでもいやな顔をしないし、隣家の無礼なふるまいにもビシッと言ってくれる。ただ、ゆり子は、一樹の言動をたのもしく、守られているように感じても、一樹のほうでは、ゆり子夫婦も隣の若夫婦も大して変わらず、どちらも自分とは違う立場の人間と認識している。その心理的隔たりに、彼女たちが気づくことはない。

 不信を抱くできごとが起きても、ゆり子は一樹を信じたい。だが、そんなゆり子の態度は一層、一樹をいらだたせる。「悪い子ではない」と思いたい二人の無防備さが、一樹を彼自身が望んでもいない攻撃的な行動にかりたてるのだ。

 登場人物たちが、自分の体の動きにわずかずつ遅れて反応する場面がくり返し描かれ興味深い。何か声に出して、とっさに行動して、その後、あれはこういう意味だったのだと気づく。考えた行動ではなく、行動してから考える。いくつかの可能性からひとつの意味を選択し、ほかを捨てるとき、捨てられたなかにもいくぶんかの真実がある。確かにこれは、人間の実際に即していると思う。

新潮社 週刊新潮
2018年6月21日早苗月増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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