『自衛隊失格』
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体を張って、本気で勤めてみたら
[レビュアー] 養老孟司(解剖学者)
体を張る。本気でやる。どちらも似たような表現だが、精確には意味が違うかもしれない。でもこの本を読んで、要するにそういう主題かなあ、と思う。
これでは書評にならない。でも著者の作品は、どうも書評に向かない気がする。書評を書きながら、それを言うのは、いささか問題だが、そう思うから仕方がない。書評は傍から見るもので、体を張って、本気で書評するというのは、なんだか変。
このあたりがこの本の「読みどころ」である。『自衛隊失格』というタイトルだが、じつは著者が失格したのではない。失格したのは自衛隊である。防衛大学校に至っては、ほとんど話にならない。だからこの本の中でも、あまり話になっていない。体を張って、本気で勤めてみたら、自衛隊という相手が自分に失格してしまったという物語である。
軍国バアサンというのは著者の祖母である。この人が防大の卒業式で全員が帽子を投げるのを見て、カンカンに怒る。官給品を放り投げるとは、なにごとか。私も古いから、心中でバアサンに拍手を送る。著者はアメリカの士官学校では、帽子は自費で買うから、と書いている。
この本は著者の第二作といってよい。前著の『国のために死ねるか』(文春新書)は衝撃的だった。こういう人がまだいたか。そう思った。父親は陸軍中野学校で、祖母は軍国バアサン。それなら右翼だろうというのは、戦後の典型的な偏見である。大学紛争の最左翼は全共闘だが、北一輝を読んだりしているんだから、思想そのものに右も左もない。政治的な情勢で左右という表現が決まるだけのこと。
この本では前作であまり触れなかった自分の生い立ち、家族のことが詳しい。父親は蒋介石暗殺命令を受けたままで、命令はまだ取り消されてないという。私は教室で教科書に墨を塗ったが、相変わらず教科書は正しくなければいけないという謬見?がまかり通っている。じゃあ間違った教科書を使ったわれわれはどうなるのか。その世代から橋本、小渕、森と、三人の総理が出ている。間違った教科書を使わせ、それを教室で訂正すると、総理大臣クラスの人材が輩出する。
それは例外だよ、例外。それを言うなら、著者ももちろん例外。中野学校を出て、その頃のことを子どもに明るく話す父親なんて、例外に決まっている。これはとても大切な教育である。明治以降の日本の教育では、親は自分が育ったようには、子どもを育てられない。
目的を達することだけを考えたら話は簡単だ。著者はそう書く。父親もそれを教えたという。私はそれを機能主義と呼ぶ。機能を果たすことが全てになるからである。機能主義はわかりやすい。私は形を専門に選んだから、機能主義のわかりやすさに憧れる。しかしもちろん世界は機能だけでできているのではない。生きものでは、形と機能は共存していて、両者は不可分である。自衛隊という組織は形だが、戦いの実践は機能である。
解剖学と生理学はもともと不可分で、英国では、形を扱う解剖学と、機能を扱う生理学は、解剖生理学雑誌と題する学術雑誌で共存していた。この二つを分けるのは、大陸系の学問である。どちらが正しいとは言えない。でもとりあえずこれまでは、アングロサクソンの機能主義が世界を制覇してきた。形と機能を学問的に分けない伝統があった英米文化が、ついにコンピュータを生み出すことになる。それが著者とどう関係するのか。
形をとるか、機能をとるか。自衛隊という形が、自分が考える機能を果たさなくなった時に、著者は自衛隊という組織、すなわち形を捨てた。しかしいずれそこには、新しい形が生まれてくるはずである。それはいわば、ひとりでに生じてくるに違いない。それを見るのが楽しみだが、残念ながら、もはや私には寿命が不足している。