【自著を語る】“悔しさの街”の光――清水浩司『愛と勇気を、分けてくれないか』

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愛と勇気を、分けてくれないか

『愛と勇気を、分けてくれないか』

著者
清水 浩司 [著]
出版社
小学館
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784093864374
発売日
2018/06/08
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

“悔しさの街”の光

[レビュアー] 清水浩司(フリーライター)

清水浩司
清水浩司

 五年前、次に書く小説について考えていた。付け焼刃のテーマじゃ意味がないと思った。たとえば意外なトリックの絡んだ密室殺人事件やしみじみとした情緒を感じさせる時代小説などは正直読者としてもほとんど触れてこなかったし、まったくもって書ける気がしない。これまで自分がそれについてずっと考えてきたもの。他人より少しはそのことについて一家言あるもの。そういうものがはたして自分にあるだろうか……?

「広島」について書くというのはどうだろうという想いが頭に湧いた。広島は私の故郷である。ちょうどその少し前、二十数年暮らした東京を引き払って広島に戻ったこともあって、私はそのどこか懐かしいような疎ましいような故郷の空気に再び対面していた。自分が捨てた街であり、帰ってきた街。自分を弾き飛ばした街であり、平然と受け入れてくれた街。自分が憎んで、軽蔑した街であり、そのくせ離れているといつも気になって、「おいおいどうした、元気出せよ」とハッパをかけたくなるようなそんな街──この街に対する愛憎入り混じった気持ちなら、誰よりもリアルに、なまなましく描ける。そんなふうに考えた。

 広島というのはインスタ映えならぬ“物語映え”する街で、古今東西さまざまな名作の舞台となってきた。『黒い雨』『はだしのゲン』『赤ヘル1975』『この世界の片隅に』『孤狼の血』『仁義なき戦い』、映画では尾道三部作や『東京物語』、瀬戸内の島々を舞台にしたものなど数多い。ただ原爆、カープ、ヤクザ……といったテーマは自分にとって身近ではない気がした。もちろんそういう要素もなくはないが、自分にとっての広島はもっと違う。よくも悪くも中庸な地方都市で、頭の固そうなおっさんがふんぞり返っていて、特攻隊のツナギを着た若者が空虚な暴走を愉しんでいて、朝のホームルームで昨日のカープの試合について語りはじめる教師が普通にいて……私はいつしか自分なりの広島を自分が育った時代にあてはめ、小説で再現することに熱中していた。

 物語は一九八八年の広島が舞台だ。父親の転勤の都合でやってきた高校二年生の桃郎。彼が恋に落ちる同級生の美少女・小麦。そして不思議な魅力のある年上の男・由木野……微妙な三角関係は真っ赤な情熱を吸い込んで疾走する。やがて時は流れ、二〇〇四年、奥田民生の広島市民球場ライブで運命の再会が待っていた──。

 一体自分の故郷に対する愛憎が、どうしてティーンエイジャーたちが疾駆する青春小説になってしまったのか、そのことを問われるとよくわからない。ただ、私が規定したこの街の根底にある要素は“悔しさ”ということだった。今でこそカープ女子の隆盛やマツダの好調、二か所の世界遺産の観光人気など、広島は活気に満ちた華やかな街として認知されているが、私が知っている広島は違っていた。私が知っている旧広島市民球場はガラガラで、カープはいつも中途半端な五位が定位置で、街は適度に豊かなくせにコンプレックスを持て余していて、毎度毎度のお約束のように縄張り争いと空回りとタメ息を繰り返していた。そんな歯ぎしりしたくなるような広島の夢と失望が、どこか青春というものの光と影に重なったのかもしれない。悔しさや無力さを痛感させてくれたこの街の暮らしこそ、今の自分を形作った原点であると認めたかったのかもしれない。

 この小説に担当編集者は「そうか、あれが青春の正体だったんだ。」というコピーをつけてくれた。私はそれを見て納得した。確かに私は“青春の正体”を見たかったのかもしれない。これまで亡霊のように取り憑いていた何かにケリをつけ、さよならを言いたかったのかもしれない。

 私はもはや青春にはいない。だが、それでもあの時期をなかったことにはしたくない。私は悔しさに背中を丸めてショボくれていたあの頃の自分と広島を、物語という箱に詰めて永遠にしたかっただけなのである。

小学館 本の窓
2018年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

小学館

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