『生きる』
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闘う人
[レビュアー] 長谷川櫂(俳人)
地球上にはさまざまな人がいる。いてもいい、いや、いるべきなのだという思想は二十一世紀の現代に確実に広まりつつある。しかし、それはまだ社会の表面のできごとにすぎず、いったん人々の日常に分け入れば、世界には人種、民族、性別、障害などによる差別や迫害に苦しむ無数の受難者がいる。
小林凜君をはじめて知ったのは十年近く前のことになる。毎週、朝日俳壇に寄せられる六、七千枚のハガキの中に「小林凜 小三」と書いた一枚がまじっていた。
紅葉で神が染めたる天地かな
小学校三年生にしては、ずいぶん大人びた句だと思った。同時に九歳の子どもを早々と大人びさせてしまった巨大な孤独の存在を一枚のハガキの向こうに感じた。
あとで知ったことだが、凜君は九四四グラムの未熟児で生まれ、その後も発達が遅れたために小学校では、彼の言葉を借りれば「クラスメートの格好のオモチャにされた」。中学校に進んだものの「いじめ」のために不登校になってしまう。
知っておくべきことは、凜君をいじめたのは子どもたちばかりでなく、多くの場合、学校と先生たちも「いじめ」を否定し無視するという形で「いじめ」に加担したことである。悲しいことにこれが学校の現実である。こうした孤立無援のただなかで凜君は俳句に出会い、俳句を作りつづけてきた。
今、俳句は小学校から教える。子どもたちは友だちや先生といっしょに俳句を作る。たしかにそれは学校における幸せな俳句の姿といえるかもしれない。凜君と俳句の関係はこれとは明らかに異なる。クラスメートや先生の「いじめ」に対抗してただ一人、凜君が俳句という無防備な砦に立てこもっている構図になるだろうか。
田に帰す小さき命やちび蛙
葱坊主触れたくなりし下校道
雀、蛙、蜘蛛。凜君はしばしば小さな動物を詠む。あるいはタンポポや葱坊主のような小さな植物。どの句からも凜君の思いやりと優しい心が感じられる。しかし、これらの句は小さな動物、小さな植物を虐げるものへの抗議と抵抗であることを忘れてはならない。
生きるとはなにか
生きるとは「抗う」ことである
「生きるとは」という詩の冒頭の二行。平均的な十六歳(当時)の高校生の人生観と比べれば、悲壮すぎるくらい悲壮である。しかし悲壮には悲壮でなければならない理由がある。
これからも凜君は俳句とともに闘いつづけるだろう。そして俳句とともに闘うことの苦難と幸福をやがて知るだろう。
存分に闘いたまえ、小林凜君。